無意識日記々

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"ジョジョ"がゲシュタルト崩壊する回

アニメの放送終了から既に3ヶ月が経過しているが、「ジョジョの奇妙な冒険」のWebラジオ「JOJO RaDIO」が未だ圧倒的に面白い。もう半年近く放送しているが、成功した作品の裏話を聞くのがこんなにも楽しいものなのかと目から鱗が落ちる思いだ。流石に注目度はアニメ放映中には及ばないものの、現行のアニラジの中でも屈指の面白さである。

この番組の凄いのは、毎回呼ぶゲストに、声優陣だけでなく制作スタッフもチョイスしてしまう点である。音響監督の岩波和美氏の回がグレイトだったのは言うまでもないが、ヴィジュアル・ディレクターという、そもそも何やってるかもよくわからない役職の人まで呼んでしまった回もまた面白かった。その人の名はソエジマヤスフミ。彼はヒカルが"This Is Love"や"Kiss & Cry"を提供したあのFREEDOM PROJECTの制作スタッフの一員でもあったらしいが、それはまぁいいや。

彼はこう言ったのである、「ジョジョの制作現場では、"今のジョジョっぽいね"とか"それジョジョ的だね"と云うのは御法度だった。"それ、ジョジョだね"と言い切れるクォリティーでなければならなかった」と。なるほど、とハタと膝を打った。確かに、この現場は他の何でもないジョジョの現場である。そもそも、"〜っぽい"とか"〜的な"と形容される対象はそれ即ち"〜ではない"という含意をもつものなのだ。ジョジョジョジョに似たジョジョでない何かではなく、ジョジョでなければならない、ジョジョそのものでなくてはならない。その意識が現場で徹底されていたというのだ。ふむ、それなら出来上がるモノはジョジョにしか成り得ないわな。


この考え方は重要である。「宇多田ヒカルっぽく歌う」とか云う場合、当然ながらその人は宇多田ヒカルではない。歴史上、最も「宇多田っぽい」と言われた人物は倉木麻衣だろう。彼女がヒカルに似ていたか否かの判断は人によっつ異なるだろうが、この事実(彼女が沢山の人にそう言われたこと)自体は疑いようがないだろう。

何が問題だったかといえば、倉木麻衣サイドが構築した"宇多田っぽさ"が、悉く「ヒカルの魅力」と関係なかった事である。見た目とか、声を出す時の癖など、それを真似ても「なぜヒカルがここまで多くの人々に愛されたか」という設問に対して何の力も得られなかった。倉木麻衣の魅力は、ヒカルと関係ない、彼女自身のものだった。なのに売り出すにあたって「宇多田ヒカルっぽさ」を前面に出したから当時のヒカルは少々御機嫌斜め上だったのだ。なんか懐かしい話だなおい。

「っぽさ」「的な」というのは、某か偽物の匂いを漂わせる。私は偽物には偽物の魅力があると思うが、ヒカルはデビューからずっと一貫して「他の誰でもない宇多田ヒカルそのもの」の魅力で勝負してきたし、これからもそうだろう。しかし、これが例えば「今の宇多田ヒカルの歌、ちょっと藤圭子っぽかったね」と言われたならどうだろうか―という話を折角彼女の誕生日なんだからしようと思ったけど時間と字数が尽きてしまったな。また次回っ。