無意識日記々

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何の事はない会いたいだけなのだ

「女性の声」特集で、Hikaruが自身の曲を選んで流した事は感慨深いが、その曲が桜流しであった事は更に感慨深い。どの曲でもよかった筈である。何しろ、もう一年近く前の曲なのだ、Hikaruからすれば。もう別に、昔からの名曲と変わりない位置づけになっていてもおかしくはない。しかしそれでも、桜流しを選んだ。

勿論理由は単純なのだろう、「いちばん新しい曲、いちばん最近の歌声」なのだ。それはそれでいい。いいんだ。

何が言いたいかといえば、Hikaruが桜流しの曲にも歌唱にも満足している、という事だ。誰よりも早く、Utada Hikaruに飽きる人はHikaru自身だ。「もう私という素材に飽きちゃって」と言われた時のヤルセナサといったら。そっちは四六時中一緒やから新鮮味もなくなるんやろうがこっちは全然そんなことあらへんわい!と叫びたくなった。飽きるのは、いつだってHikaruの方が先である。

しかし恐らく。今Hikaruは、桜流しを作って歌った自分の事が相当に好きなはずだ。でなくば、女性の声特集でかける必要がない。他のあらゆるフェイバリット・シンガーの中で、HikaruはHikaruの事をえらく高く評価している―なんだか隔世の感を禁じ得ない。

今、HikaruはHikaruに期待している。期待する事が出来る。この事実は、これ以上ない程ポジティブだ。そしていつか、HikaruがHikaru自身の期待に応えてやろうじゃないか!やったるぜぃ!となった時が復帰の時なんだと思う。映画の主題歌をリリースし、月一ラジオのDJをやっておきながら「アーティスト活動休止中」とはいつきいても何だか不思議な感じがするが、Hikaruの描く「復帰」というのはもっと、こう、私的かつ"たかい"ものなのだ。自らの期待に応えれる自信。自身を飽きさせない素材としての自信。Confidence。アレサ・フランクリンのLIVEを観た時にヒカルはそう言っていた。誰しもを、自分自身をも納得させるだけの、根拠のない、或いは根拠の大いにある自信。それこそ「ただ信じる」だけの事なのだが、それがいちばん難しい。人間活動を通して、Hikaruが自身に自信をつける。これは、大切だ。


だとしたら…くまちゃんはどうなるのだろう。最近殆ど出てこないのだけれど、彼の存在の"大きさ"は、今のHikaruにとってどれ位なのだろう。

ラジオ番組のタイトルが"クマ・パワー・アワー"である。未だにくまちゃんを溺愛しているのは間違いない。ただし、まだラジオではクマな話は出てきていない、かな。余りにも日常に普通に居るから、わざわざ取り上げないのだろうか。ちょっとくらい、触れてくれてもいいのに。


何のことはない、ただ私が、くまちゃんに会いたいだけなのだ。それには、Hikaruが命を代弁しなければならない。もどかしい。ラジオで「ぼくはくま」をかけるのはいつになるのだろう。タイトルからしたら毎週かけても、いいんだけどな。いやもうどうせなら、鼻歌歌っちまってもいいんだぜ…。