無意識日記々

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30年という歳月が紡ぐ大きな作品

オーディエンスの質、というと若干堅苦しく聞こえるが、これは所謂その場でのマナーの問題に過ぎない。つまり、あれをやる、これをやれる、という観点ではなく、あれをやらない、これをしない、という話。問われるのは能力ではなく自制心である。具体例を出さないと何の話かさっぱりわからないが、本題と関係ないから御容赦を。

宇多田ヒカルの場合、いきなり全国ツアーがアリーナクラス主体であった。これではファンの方も位相が揃っている筈がない。静かにじっくり聴いていたい人たちと立ち上がってはしゃぎたい人たちの間のギャップは、当時からあり、恐らく今も少なからずあるだろう。これがハードコアのLIVEなら静かに聴きたい人は後ろで観るのがマナーだし、クラシックのコンサートではしゃぎ始めたら問答無用でつまみ出される。例えばロックフェスに慣れてる人は、クラシックのコンサートでは演奏中にホールを出入りする事が禁じられている、だなんて"常識"すらピンと来ない。チャイコフスキー交響曲第1番第1楽章に遅刻してしまうと20分間ロビーで待ち惚けだ。何で今その曲なんだかわかんないが。

そういった"常識"を、ヒカルのファンの間で練り込んでいく時間なんて、なかった。本来ならライブハウスから始まり、お客さん全員顔見知り状態からそういう常識を醸成する雰囲気は作られていくものだが、ヒカルにはそれがなかった。ジャニーズなんかはいきなり凄い規模のツアーを打つけれどあそこはファンにも事務所にも伝統がありまずジュニア時代にバックダンサーから…という演者の手順、ファンの方もベテランで…という、歌舞伎の世界のような確立した構造がある。AKBだって秋葉原の小さい劇場からスタートしている。Perfumeのサクセスストーリーも有名だろう。宇多田ヒカルには何にもなかった。あるのは母親が歌手だったという"事実"くらいなもんだ。それがどれ位関係があったやら。


ライブパフォーマーとしてのペルソナを今Hikaruがどれだけ気にしているのかはよくわからない。しかし、間が空きすぎているのは考えものだ。世代交代、という前に人々は進学や就職や結婚などで状況が変わってゆく。また6年以上のインターバルがあく地区が日本の至るところと、そして、このままでは全米の至るところとロンドンに、出来てしまう。

In The Flesh 2010の規模が理想的だったという話は幾度となくしてきた。ああいう風に各地のオーディエンスを、LIVEの雰囲気を育てていけば、更に人数が増えた時によりよいものになっていく可能性を秘めていた。これが、また、殆どゼロからのスタートになる。


多分、"LIVE観"の違いがあるのだろう。私からすれば、LIVEとはその日の夜の2時間で決まるものではなく、何十年、モノによっては何百年の歴史を背にして増殖していく大きな大きな"作品"なのだと思えている。サグラダファミリアみたいなもんである。

そう考えると、Hikaruにはもう時間があんまりない。またもや私の感覚の話をすれば、LIVEを一定の一里塚に達したと見れるまで大体「30年」かかる。これはアーティストの都合ではなく、オーディエンスの方の都合である。英語で世代をGenerationというが、これには30年という意味もある。即ち、一世代が巡る位に耕し続けて漸く成し遂げられる領域がそこにはあるという事だ。最初に感動した少年少女が成長した我が子を連れてコンサートにやってくるまで頑張って、そこで描けるものがあるのがLIVEコンサートというものだ。つまり、"LIVEツアー"というのは、地域を空間的に移動するだけでなく、それは時間的な旅でもあり、世代から世代へと紡がれる旅路でもある。ある意味"LIFEツアー"でもある訳だ。

リエーターに年齢は関係ないと思うが、万単位のオーディエンスと一緒に作り上げていく"LIVEツアー"という人生を捧げた作品には、時間の限度というものがある。30歳を超えたのだから、そろそろそんな事も考えていかなくてはならないかもしれないよ。