無意識日記々

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需要と供給の均等化

前回までは音楽を"消費"する立場から語っていたが、"供給"側からみた場合、宇多田ヒカルはどの位置に居ただろうか。

インターネットの登場によって、音楽に限らず、ソフト関連の供給はほぼゼロコストとなった。また、計算機の発達に伴いソフトの制作費用も劇的に下がった。勿論、それなりのクォリティーにする為には結局人力が必要なので人件費はかかるのだが、"市場"の低迷とは裏腹に、今は世界中に音楽が溢れ返るようになった。日本とて例外ではない。

若い世代にボカロ曲がウケるのは、特に音楽的にどうのではなく、タダで聴けるからである。ソーシャルゲームブラウザゲームの人気でもわかる通り、まずは無料面で人を集め、課金はその後というのが今の流れだ。実際、ビッグタイトルはないものの、フィジカルのCDでさえボカロ作品が売上を牽引するケースも今は日常化している。まずは無料で人を集めないと話が始まらない。

尤も、これは今に始まった事ではない。ラジオにしろテレビにしろ、今のインターネットと同じようにタダで幾らでも観れる、聴けるという状況から種々の経済効果を生み出していた。変わったのは、冒頭に述べた通りの供給過剰状態の出現だ。ラジオテレビ時代は送信と受信は非対称な存在だったが、今や送受信は渾然一体である。

その相対化された中で商業的な消費を喚起するのは並大抵の事ではない。難しいのは、世代的に、宇多田ヒカルはラジオとテレビという非対称なメディアから生まれてきたスターである、という点だ。早くからインターネットを活用してきたヒカルだが、インターネットという環境に生み出されたスターではない。インターネットを場というよりツールとしてみる世代、といえばいいか、その世代からの"支持"によってビッグネームを保ってきた。そういう意味においては"旧時代的な"アーティストであるともいえる。

その、昔ながらの体制をこれからどう捉えていくのか。次回はそこらへんから。