無意識日記々

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「疎外感に恐怖」?

宇多田ヒカルApple Music「J-Pop Now Radio」に初出演。

最新アルバム「BADモード」について語るエピソードが公開!

https://www.sonymusic.co.jp/artist/utadahikaru/info/539073?id=aep220316

(※ 以上、公式メルマガからの転載)

なぜか柄にもなく(?)「凄い時代になったな~」と感心してしまった。公式からメルマガが届き、その場ですぐに手許のスマホApple Musicを使って宇多田ヒカルのラジオ出演の様子が聴けるというこの流れに対して、ね。放送されたラジオ番組をすぐ聴けるのはもう随分radikoで慣れてるし、公式からメールが来るようになって何年も経ってるんだと思うのだが、今回ラジオ出演の告知が予め無くていきなり聴けますよ状態だったのが理由かな。知ってすぐにもうコンテンツを体験してるっていうスピード感。これが当然のように起こっていてそれが感心に結び付いたような。ほんと今更だけどね。

という訳でヒカルがたっぷり日本語で1時間近くもインタビューで話してくれた。耳が幸福である。

もうそれだけで大満足なのだが、当然のことながら興味深い話が沢山聞けました。何回にも分けて色々と弄くっていくことにしよう。

最初に取り上げたいのは、今回のアルバムで日本語歌詞と英語歌詞の垣根が低くなった件について。性別のみならず歌詞の言語もNon-binary(非・二項対立)になっている(という言い方は私の勝手なのだが)─これについてヒカルは「なんで今まで気にしていたのか」と、全く心境が変わってしまっていた事を告白した。そんなに劇的に変わるもんなのね。

今までは、仮に日本語と英語を半々にした歌詞を書いて歌ったりしたら、どちらの言語圏の人たちもそれぞれに疎外感を覚えてしまうのではないかと恐怖していたという。…ん?恐怖?

なぜそれをヒカルが「恐怖」するのか。私のような人間にはその一言が引っ掛かった。もし私が仮に作詞者だった場合、リスナーが疎外感を抱くのは、まぁ例えばかわいそうとか、或いは自分の届けた音楽でネガティブな感情が生まれたのは残念だとか、そういう感情になると思うのだ。そうなってしまうことが直接「恐怖」には、ならない。

そうね、もし恐怖を感じるとするなら、疎外感を覚えたリスナーが私の作詞から離れていってしまう事についてになるかと思う。ファンが離れる、曲が売れない、儲からない、次の仕事の依頼が途切れる…そういった恐怖なら、あるだろう。それならわかる。

しかし今のヒカルがそういう意味で恐怖という単語を使うとは考え難い。昔ならいざ知らず。とすると、それはどういう意味になら成り得るのか。

多分だが、リスナーが疎外感を抱いたときに次に生じる恐怖のことを指しているのだと思う。それは、我々リスナーなら多かれ少なかれ感じたことがある話。今度出た宇多田の新曲がどうも響かない、もしかしたら自分はもうヒカルが想定するリスナー像からハズレてしまっているのでは、という恐怖である。ただ言葉がわからないという疎外感だけではなく、宇多田ヒカルから疎外される感覚。確かにこれは恐怖以外の何ものでもない。

ヒカルはナチュラルにそこまで感じ取って作詞作曲をしているのではなかろうか。まるでその感情が自分事であるかのように、だ。そういう感覚が非常に強いからこそ、リスナーがヒカルの歌詞をまるで自分のことのように、自分のことを歌ってくれてるかのように、自分に向けて歌ってくれているかのように感じられる歌が歌えるのだろう。この「恐怖」という一言に、作詞家宇多田ヒカルの神髄の一端を見た思いだ。

多分ヒカルは「疎外感に恐怖」というフレーズを、そこまで考えずに思わず呟いてしまったんだと思うが、今の私は聴き逃しませんでしたよ? しかし、こういう風にリスナーから細かいとこまで穿たれると話し手としては非常にウザい。ヒカルにこんな人にインタビューを聴いて貰いたくないわいと思われそうで今私はその恐怖に苛まれている所でございます。うん、自業自得だね☆