無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

結局孤独の代弁者、か?

具体的な型を持たないHikaruの音楽は、著作権フリーな環境において後続を刺激しやすい。メロディーの強さは天下一品な為、二次創作もやり甲斐があるだろう。

単純に、Hikaruはどちらが嬉しいんだろうか。どちらも嬉しい? まぁ、そうだわな。ただ、お金に執着は無さそうなので、どちらかといえばクリエイティヴなインプレッションの方を重視するようにも思う。ちょっとしたジレンマかもしれないが、Hikaruは自分の音楽が某かの音楽的影響を何処かで及ぼすかもしれない、なんて全く考えていないだろう。普通の人だって考えないけど。

ただ、宇多田ヒカル赤松健のように二次創作OKのサインを"公式に"提示したらどうなるだろう、という興味はある。どれ位新しいものが生み出されるか、ね。

UTUBEの存在は、かなりアグレッシヴである。スマホ世代の人は宇多田の代表曲は「ググればフルで見れる/聴ける」ものとなった。PCでは言わずもがな。照實さんは「PVはPromotion Videoだから」と言うが、その怒涛の再生回数に見合うだけの収益をあげているかというと、ねぇ?

二次創作には遠いが、このUTUBEは直接商業的効果には結び付かないがヒカルの存在を印象付け続けるには十分な効果を発揮している。要は、ここからどうするか、である。

桜流しは3日間でショートバージョンになった。今も確かそのままな筈である。これがフルコーラスにまた戻る日が来るとしたらいつだろう。発売からちょうど一年経った位が適当だろうか。ただ担当者が忘れているケースも考えられる。けれどもUTUBEのコンセプトを考えればいつかはフルコーラスにするしかない。でなくば桜流し以降のPVは総てショートバージョンに? 不自然過ぎる…。

私はつまり、ここから一歩踏み込んで、PVを素材にした二次創作にGOサインを出してみるのはどうかとかそんな話をしてみたかったのだが、ひとつ大きな障害がある。ヒカルは「げいのうじん」扱いされているのだった。悪意のある編集が待ち受けているだろう。これが普通の音楽家の作品なら、作者の日常生活とかホントどうでもよく、映像や音楽のクォリティーの話になるのだが、げいのうじん宇多田ヒカルはゴシップの餌食となる。つくづく、途轍もない知名度と50億だかなんだかというバカデカい金額の収入と引き換えに失ったものの大きさを痛感する。痛し痒しである。まぁゴシップは、どんなジャンルでも飛び抜けて有名になってしまえば逃れられない運命ではあるのだが。


やっぱり、Hikaruはメジャーレーベルに籍を置き、純粋に消費者に向けて良質で真摯なPopsを送り出し続けるのがベターなのかな、と色々考察した挙げ句に思う今である。何か、何故か悔しいので、いつか別の方法論を提示してやるぜと心に誓う週末の夜でしたとさ。あれ、今週熊淡のエントリーいっこも書かなかった。…(涙)