無意識日記々

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そこらへんのことは。

KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru まであと一週間少しだが、えぇっと、納品報告はまだだな。残念だが今回飛ばしてしまうとファンの間ですら不信感が広がってしまうから、なんとか踏ん張って放送して欲しい。Twitterは照實さんが隙間をキッチリ埋めてくれているので、寂しくはない。(?) 「笑っていいとも」みたいなもんだろうかね。

光も随分落ち着いたとは思うが、深い哀しみはある時不意を突いて襲ってくる。その時は膝から崩れ落ちてしまうかもしれない。それは、時といえどなかなか癒せるものではない。心理構造自体が母の死を受け入れるまでには、なんだろうな、やっぱり時間はかかるけれど、それ以上に、自分の中に母とか親とかを育む心意気が芽生える必要がある。生きてりゃ得るもんばっかりだが、彼女はもう何も得られない。


からしんみりしとるな。テレビの改変期のお陰か3ヶ月ごとに生活のサイクル…とまで言うと言い過ぎかもしれないが、かなりのものが入れ替わる感覚がある。あれだけ毎日タイムラインを賑わせてくれた#あまちゃんタグも、すっかり影を潜めてしまった。放送終わったんだから当たり前なんだけど、こういう切り替え、入れ替わりの時期に乗っかっておかないと、11月から復帰ではちょっと敷居が高いかもしれない。月イチだと余計にね。

確かに、どんなトーンで入ればいいかわからないかもしれないが、それはこっちだっておんなじだ。いや、こっちがHikaruの出方を窺っているというか。だから、そういうトーンなんだ、とこっちに知らせてくれるだけでよい。あとは、なんとかなるだろう。

プロデュースと演出というのは、そういう捉えどころの薄い、あやふやな感覚から出発する。後から、それをどう具体的に落とし込むかというプロセスに入る。Hikaruは番組制作を通じて、今の自分の心理状態を客観的に見つめ直す機会を得るだろう。前も言ったように、それはセラピーになるかもしれないし、新しく傷をつける事になるかもしれない。しかしいずれにせよそれは社会的人格の話である。プライベートはまた―全く、というほどじゃあないにしろ―別である。その線引きと、ロールプレイによって、両輪がしっかり回っていくように、祈っている。無理に明るくしていたり、ひたすら暗かったり、また無表情だったり、どれがいいかな…普通に楽しくやるのがいちばんだろうな。Hikaruのラジオを聴くのはいつだって楽しいから。そうならなかったら、そうなのねと言うだけの話だ。案外すんなりである。そこらへんのことは。