無意識日記々

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「宇多田ヒカルのうた」がいい

「トリビュート・アルバム」という言葉を使わない理由として考えられるのは、まずそれでは意味がわからない、という事だ。あんまりポピュラーな語感じゃないと。ならば多少誤解を与えてもカバーと呼んだ方が伝わると。その発想自体はわかるけれど、一体どんな層を相手にするつもりなんだろう。トリビュートと呼んだら意味が通じず理解を得られなくて購買機会を逃してしまう人、つまり、「あ、なんだ、そういうことだったのか、じゃあ買ってみよう」と3000円払ってくれる人がどれくらい居るのか見立てはついているのだろうか。ネットによる口コミが基本な時代、悪評による弊害は昔に較べてとても大きい。誤解に基づいた悪評によって全体のムードが悪化したらまず手にとって貰えなくなる。そこらへんのリスクマネジメントは大丈夫なんだろうか。

もうひとつ別の理由も考えられる。多分こっちだろう。今回は、カバーされる側が主導で立ち上げられた企画である。トリビュート=tributeとは捧げものの意味であるから、自分からトリビュートと言ってしまうのは「貢げ」と言ってるに等しい。とても自分からは言えない、というのが本音である。確かに、それでは仕方がない。トリビュート・アルバムというのは、その人を尊敬する誰かがその気持ちを表現したくて立ち上げる企画なのだから。


そう考えると、今回人選のどこかのプロセスにヒカル本人が関わっているのは、トリビュート・アルバムと呼ぶ事はないとはいえ実質トリビュート・アルバムな本作の体質を考えると大変興味深い。照實さんのツイートからは確定できないが、果たしてどれくらい関わっているのか。その段階如何によって影響力は格段に変わる。

後から本人承諾を得る、というだけですらパターンがある。最初に候補となる人々の名前をリストとして挙げて「この人たちに依頼しようかと思ってるんですけど」「いいんじゃない?」というやりとりがあってそれっきりなのか、出来上がった音源を聴いてからアリナシを評価するのではだいぶ違う。その候補者も全員に関してか一部だけなのかというのでまた違ってくる。

ヒカルの方から「この人にやってもらいたい」という"提案"があったかどうかも、わからない。果たして、ヒカルのクレジットはどこかにあるのか。今ならUtada Hikaru名義になるのかもしれないが。大きく関わっているなら、自分がカバーされるアルバムに「Utada Hikaru Presents」と書く事になるんだが、それもなんか奇妙だねぇ。


果たして、この"ソング・カバー・アルバム"のコンセプトというか体質は、聴いていない人々に対してどこまで正確に伝わるのだろうか。発売前のティーザー・トラックというか"リード・シングル"が誰の何という曲になるかによって、事態は大きく左右されるだろう。次回はそこら辺の所からかな。