無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ポテトもジャガイモもソレゾレにオイシイの

何度か書いてきた事だが、これもまたもう一度整理してみよう。Utada Hikaruの楽曲と日本語・英語の扱いの関係性についてだ。

まず、日本語曲を歌う時と英語曲を歌う時を基本的に分けるやり方。アーティスト名まで変えた宇多田ヒカルUTADAはこれにあたる。とはいっても、シングルのカップリングに英語曲を入れたり、お互いの名義のLIVEで双方の歌を歌ったりといった事はあったが。

次に、日本語曲と英語曲を、分け隔てなく歌う、というスタイル。Utada Hikaru名義はこれになるんじゃないかというのがオーソドックスな予想だろう。別名義にするよりずっと両方の楽曲が密接になるだろう。LIVEもちゃんぽんである。

それともうひとつ、更に踏み込んだスタイルがある。完全にバイリンガルな楽曲を作ってしまう事だ。今までも日本語曲に英語を織り交ぜたり、英語曲に日本語を入れたり(コニチワ,サヨナラ〜♪)してきたが、いずれもあクマで付加的なもので、それぞれ邦楽曲、洋楽曲の枠組みの範疇のものだった。しかし、このバイリンガル曲は、日本語と英語が均等に扱われる事を想定している。メイキングなどで、Hikaruが日本語で喋っていたと思ったら急に英語で喋りだし、なんだなんだと思っていたら今度はまた日本語で喋り出す、というのを皆見た事がある筈だ。あのノリを歌に持ち込んでしまうのだ。Aメロ日本語Bメロ英語サビは日本語と英語のコール&レスポンス、みたいな感じ。えらくせわしないねぇ。

という訳で、バイリンガルの歌うPopsと言っても、上記のように様々な状況が考えられる訳だ。ひとくちに、「これから名義を統一してUtada Hikaruとして活動していきます」と言っても、やはり今までと同じように、宇多田ヒカルな時期とUtada Hikaruな時期が交互にやってくるかもしれないし、その"交互"が、アルバム単位でなく曲単位になるかもしれないし、曲の中で起こるかもしれないし、結構わからないものなのだ。或いは、それらのハイブリッドも勿論考えられる。完全バイリンガルの曲、日本語曲、英語曲をいずれも対等に扱うスタイル。結構聴き手はついていくのが大変かもしれない。

そんな中で、例えば「日本語曲はシングル主体、英語曲はアルバム主体」なんていうやり方はどうかと提案したのだが、肝心なのは、日本でHikaruが英語曲を発売しても果たしてウケるかという点なのだ。レコード会社、特にEMIレーベルを外から見ている輩からすれば、Hikaruのミュージシャン・シップ云々を考えず、「無理して英語曲なんぞ歌わんでも日本で日本語売っとくのがいちばん確実に稼げるのに」というのが本音なんだと思うし、何より、ユニバーサルになってからはその声が多数派を占めるのではないか。ここで参考にすべきは、This Is The OneとSingle Collection Vol.2の売上である。それぞれの数字に、果たしてレコード会社内の外野連中は満足なのか。Vol.1とEXODUSはあれだけ売れたのに、と。その声は無視しても構わないものなのか、ちゃんと聞き入れないと立ちゆかなくなるものなのか、完全外野な我々には推し量るのも難しいのが歯痒い所。

結局は、Hikaruがどうしたいかなので、ここでこうやっても仕方がないのだが、母親は19歳にして「自分からあれがしたいこれがしたいというのはない。周りからああしろこうしろと言われて動く」と言い放った人物だったので、そのイズムをどれだけ受け継いでいるのやら、そこらへんにかかっているんだろうな。

何しろ私は元々、「何でマーケットを気にするの?」と思ってるので、「自由に作って発表すればいいじゃない。出来たものがどこで売れるかを見つけるのがマーケティングでしょ。」と理想論を言う事しか出来ない。Hikaruがバイリンガル、或いはこれからトリリンガルになる、というのならそれを含んだ作曲家として歌を作るまでだろう。悩む所はそこじゃない、と思う。でも、そんな考え方じゃない子だったから売れてきたんだよねぇ。ほんに、難しいわ。楽しいからいいけれど。