無意識日記々

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アルバム・アーティスト ポール・マッカートニー

ポール・マッカートニーの何が凄いって「曲」とは何か、「アルバム」とは何かについて、深く深く理解している事である。

何らかのアイデアに気がついた時、何がどうなったらそれが「曲」になるか、「曲」としての顔を持てるか。そこを解っているからどの曲も個性的で、存在感がある。音楽的アイデアがひとつの楽曲にいつ"なる"かを見極めるのは大変難しい。そうやって出来上がった楽曲は余りにも自然にあるべき姿をしているので、何もない所からそこに着地したプロセスになんてリスナーは思い及ばない。しかし、この曲は間違いなく、誰かに書かれたのだ。

何だか抽象的でわかりづらい話になっているが、それ位に御大の凄みというのは控えめで玄妙である。出来上がったのが何の変哲もないポップ・ロック・アルバムであるから余計にだ。実にさりげない。そこが凄い。

そこまではまだいい。「曲」という単位に関しては、もう人類は何万年も取り組んできた。しかし「アルバム」となると話は違う。それは即ち「曲集」或いは「小曲集」であり、幾つかの独立した楽曲を集めてそれをひとつの作品と見做す"習慣"である。我々はその文化に慣れきっているが、原点に立ち戻って、何がどうなったらそれがひとつの作品としての"アルバム"に"なる"、のか。これは「曲」以上に、いや、遥かに難しい。

御大は凄い。この新作「NEW」でも、ひとつひとつの楽曲を独立した存在として扱いつつ、それらまるで異なる楽曲群が丁寧に絡み合って、ひとつの単体としての「アルバム」という作品を作り上げている。やってる事は5歳児でも親しみやすいシンプルでポップなロックなのに、なんかこんな大仰な事を言いたくなってくる。

繰り返しになるが、このアルバムにはThe Beatles時代のような突出した名曲もないし、別にそんなに大ヒット曲になれるポテンシャルのある楽曲もない。しかし、聴いているとそのカラフルな楽曲群のバリエーションに魅了されていき、最終的に全曲聴き終わった時の「満足感」「充足感」は、他では得られないものだ。そして、言うのである。「アルバムってこゆんだろな」って。何気ないが、これを言える作品に出会える事は滅多にない。

ただ、歴史を紐解いてみれば、御大がそのような作品を作れるのは必然である。何しろ、シングル盤主体だった音楽業界を一気にアルバム主体に変革したのが後期The Beatlesだったのだから。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で、"コンセプト・アルバム"或いは"トータル・アルバム"という手法を世に知らしめた。別に彼らが最初という訳じゃないだろうが、実際に最も大きな影響力を発揮したのはThe Beatlesである。彼ら以降、特にロックバンドは「名曲」よりも「名盤」を作り上げる存在になってゆく。

であるならば、御大が「アルバム」というものを作るのにこの世で最も秀でていたとしても驚くにはあたらないという訳だ。アルバムという手法を開拓したオリジネイターの1人、しかもその代表格なのだから。


私は前々から言っているように、配信購入が普及すれば「アルバム」という単位より「楽曲」という単位の方が強くなっていくだろう、と考えている。着うたでも歴史に残る大ヒットを飛ばした宇多田ヒカルにおいては、アルバムはおろか楽曲という単位すら崩壊させて数十秒のフレーズで世間に親しまれた。一方で宇多田ヒカルはシングル盤の売上に対してアルバムの売上が大きい事から世間一般では「アルバム・アーティスト」と見做されている。では、実際のところどうなのか、ポール御大のように、「アルバム」という単位において作品性を自立させる事が出来てきたのか。次回、入念に検証してみよう。(あクマでも予定…)