無意識日記々

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自己批評性・自己言及性作品の話

何度か呟いているが、秋アニメは話題性に乏しいながらも充実していて面白い。特に、「アニメとは何か、どうあるべきか、何が何ができるか」といった自己批評性の高い作品が目につく。

筆頭は先日も紹介した「キルラキル」だろう。2006年の傑作、インフレーションとストーリー性についての批判性をそのまま物語化し、アニメ技法の歴史的な回顧と随行しながら展開させ見事な完結をみた「天元突破グレンラガン」の流れを組む、真正面から「王道アニメとは何か。どうあるべきか」というテーマと取り組む本作はあらゆる階層において過去のアニメーション作品たちへのオマージュとパロディがもり込まれている。極端にいえば「アニメあるある」の宝庫である。この作品を見た後にアニメの実際の歴史を振り返ってみるのもいいかもしれない。

あるあるネタといえば、部活動アニメの定型を羅列しながらそこから如何に逸脱するかを女性声優4人が競ってgdgdになる「てさぐれ!部活もの」も見逃せない。プレスコ(声を先に録音して絵を後からつける)の手法を活かし、その制作スピードを利用して視聴者からのフィードバックを巧みに取り入れながら進行していくその独特のLIVE感は、「アニメという枠組みで何ができるか・そもそもその枠組みはどこまであって、どうやってそこから外れていくか&それをどこまで押し広げていけるか」といった欲張りなテーマを内包していて、実に興味深い。現実はアニラジに絵がついただけなんだけども、監督が切れ者且つ案外野心的な人で、更にダウンタウンの番組の構成作家を務めるなどアニメ業界の外からの視点を持っているのが強みである。そこから出てくる批評性は本質を突いている。

逆に、アニメ業界のコアそのものを描きつつも批評性を持たせられている作品が「アウトブレイク・カンパニー」だ。アニメヲタクが大好きな剣と魔法の世界にアニメヲタクを紛れ込ませるという展開で、ヲタクという生き物の滑稽さを相対的に描き出す。テイストは萌え系ギャグアニメに過ぎないのに、案外本質は冷静で客観的だ。てさぐれ同様あるあるネタ(こちらのテーマは一環してヲタクの生態そのもの)を披露しながら、自己の世界を内側から相対化するというのは幾何学的なセンスがあると思う。


こういった、自ジャンルについての批評性を作品の中で展開出来ている業界は好調、或いは健全であるといえる。ありていにいえば、時々「俺何でこんな事やってんだろ」と我に帰る瞬間がなければ、どうしたって狭い世界でのお約束の追求になってしまい風通しが悪くなる。「こんな事やってていいの?」という自問自答がその業界を大きく発展させる。ガンダムエヴァがいい例である。


日本の商業音楽にも、正直そういった自己批評性が欲しい所なんだが、なかなかそういったミュージシャンは現れない。ラブソングや応援歌を歌う人たちは沢山居るが、例えば上記のアニメ作品達にみられるような実験性や自己批評性がみられるかといえば私は知らない。夢の世界に耽る少年少女を夢中にさせて…という構図しかみえない。なんとかならんものか。


Hikaruの曲の中には、幾つか自己批評性、自己言及性をもった作品がみられる。『キーが高すぎるなら下げてもいいよ 歌は変わらない強さもってる』といいながらキーチェンジして"今歌っている歌"について言及・批評する"Wait & See〜リスク〜"はその最たる例だし、『誰かの為じゃなく自分の為にだけ歌える歌があるなら私はそんなの覚えたくないだからForYou』と、歌手である自身をモデルにしたと思わしき主人公が登場する"For You"や、締め切りに追われている事そのものをネタにした"タイム・リミット"もそういった系譜に名を連ねるだろう。どれも、シリアスなテイストを持ちながらリスナーに「新しい気付き」を新たなレベルでもたらしてくれる秀逸な歌詞をもった名曲たちである。

とはいえ、ヒカルの曲に関しては上記に挙げた程度で、自己言及性・自己批評性を湛えた歌詞というのはさほど多くない。それが目立つのは英語詞の歌、Utadaの楽曲たちである―のだが流石に今回は長くなり過ぎたので、その分析に関してはまた稿を改めて。いつ書くんだかだが。