無意識日記々

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EVAQuate it ~2.5次元の吟遊詩人

巷の賛否両論とは裏腹に、私はEVAを気に入っている。勿論、破でみせた王道エンターテインメント路線を反故にしたのは残念だったけれどそれは「EVAがどんどんポピュラーになっていったら面白いなぁ」という他人行儀な興味の発露に過ぎず、自分個人が作品を見て楽しめたかどうかは直接関係がない。ただ、EVAはその成り立ちからして多分に常に"社会的"な作品で在り続けてきた為、そういった作品外での文脈に関する議論すらも楽しみのひとつとして"最初っから"ある。そこがちょっと他と違う。純粋な作品の完成度だけで視聴者を圧倒しその後もじわじわとファンを増やし続けている「魔法少女まどか☆マギカ」とは対照的に、EVAは常に論壇とセットだった。出発点となる小説などの作品とそれを批評する文筆とが渾然一体となった"文壇"(そんなものが実際にどこかにあったとして、だが)を形成したところがEVAの特異な点である。

作品自体も"純文学"と言われて久しいが、そこに文壇の文脈を必然的に登場させた部分に関しても、EVAはやはり現代の文学と呼ぶに相応しいだろう。

その批評空間を形成する要素も、作品がアニメーションであるだけあって多岐に渡る。公式のコミカライズからして二次創作のようなものだし、時代のアイコンとなった綾波レイのキャラクター性は未だにライトノベルや深夜アニメのスタンダードのひとつである。もうそういうのが当たり前になりすぎて気付けないだけで。Webの黎明期と重なった事もあり本来の言論自体も活発であったし、その多角性が水面下からはみ出してきたのとEVAの推移とシンクロする。ヲタクの市民権とEVAの知名度には強い相関があると言ってもいいかもしれない。

そんな中、最も鋭い批評性を見せたのが宇多田ヒカルだという主張を現時点でわかって貰おうとは私は思っていない。それが納得されるのはまだ先だろう。しかし、桜流しはクォリティーの面においてちょっと先走り過ぎてしまった感は否めない。あれだけ苦労して新しい一歩を踏み出したQのエンディングを待ち構えていたかのような曲調となっている。Qは素晴らしい作品だと思うが、これでは桜流しへの前口上に過ぎない。ヒカルのもつ作品への批評性はわかりやすいセリフの引用から作品の核の簡潔な描写まで多層に及ぶが、ここまでやられると次回作は多分、更にBeautiful Worldと桜流しのテーマ性をダイレクトに反映したものとなるだろう。

本来、映画の最後に歌が流れる必然性なんて無い。一言で言えば「あんた誰だよ」てなもんである。しかし、ヒカルのようにある一定の距離を置きながら作品の本質を理解しそれを踏まえた上で音と言葉を紡がれると、作り手側は耳を傾けざるを得ない。その立ち位置は、純粋に物語の中に入り込んで登場人物に感情移入して楽しむ向きと、論陣を張る為の材料としてEVAを扱っている"論客"たちとの、ちょうど中間にあるように思われる。そのどちらでもなく、と同時にそのどちらでもあれる。確かに、ヒカルにしか務まらないかもしれない。

その立ち位置を指して何と呼ぶべきかが悩ましい。文学性と呼ぶには要求される能力が高すぎる。本来尺稼ぎでしかなかった"アニメの主題歌"という中途半端で奇妙な習慣から生まれた鬼子のような存在である。ピカイアみたいなもんだろうか。ちょっと違うか。



…今思いついたのは"2.5次元の吟遊詩人"というフレーズだ。吟遊詩人とは、現実の物語を高所や遠方から眺めて語り継ぐ役目を持つが、ヒカルはその役割を2次元の作品に対して行っている。大抵の吟遊詩人は歴史に介入しないが、ヒカルの場合唄った唄が強力過ぎて王様の耳に入ってしまったパターンだな。


となると、ヒカルは最後の最後に自主的にEVAについての歌を、新しい作品の有無と関係なく作っておいた方がいいかもしれない。勿論、それとなく、わかるかわからないかくらいのニュアンスで。物語が終わって登場人物が皆去っても語り部たる吟遊詩人は生き残る。その物語の最後を飾る彼女の新しい詩を聴くのが今から楽しみである。