庵野さんだから作品に自己批評性を盛り込んできたりは普通なんだけど、アニメーションを時間軸上で批判的に考察しつつエンターテインメントとして仕上げたものはグレンラガンやらキルラキルやら名作が幾つも既にあり、もうそれ自体が二番煎じ三番煎じになっちゃうから、例えば自分のような90年代からエヴァを観てきているような人間に「シン・エヴァ」を「旧い」と思わせる事が狙い通りであるとしてもその着地点が新天地である可能性はとても低い。もうそれがやれるような世の中ではない。
というのも、そろそろ絵の方が現実を超えつつある─は言い過ぎしても、ヴァーチャル・リアリティとの比較なくしてアニメーションは語りづらいところまで来ているのは確かなので。それこそ我々が3DVRやら360 Reality Audioやらで騒いでいるのは「作品の体験」が新しいフェイズに入りつつあることを示唆している訳だからこんな世の中で昔みたいに「お前らアニメばっか観てないで外に出ろよ」と言っても何の説得力もないのよさ。今の若い世代にとってアニメーションの存在は最早批評の対象ではなく、多義的なエンターテインメントの中でどう組み込まれるかというパーツのひとつに過ぎない。
実写映画だって特撮やCGの技術が進み過ぎてここ最近はもうアニメーションと区別するのが阿呆らしくなっている。ウィル・スミスが「いや僕の身体を青く塗ったんじゃなくて…」とか何とか言ってられるのももうあと少しかもわからない。アラジンの話ね。
そんな世の中で自己批評のメタファーとして“ロボットアニメ”が大活躍するかというと、ねぇ? となればやはりシンプルにアニメとしての原点に立ち返り我々レトロな世代のレトロな接し方に見合ったアニメを提示するのが得策だと判断したのではないかなと。ノスタルジーを自己批評的に表現するのであればアニメーションは単独で機能するしそもそもそれがアニメーションだ。動く影絵みたいなものだからね。
となればヒカルの歌はどうなるか、という話からがまた次回かな。歌は世に連れ世は歌に連れ、とは言うけれどそのエンターテインメントとしての形態はもう何万年も変わっていない。マイクが出来たくらいだよ。1世紀ほどしか歴史を持たないアニメーションにはない安定と安心があるのよね…って、さてどんな話になりますか。今の時点では全く何も考えてません(笑)。