無意識日記々

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"Is This My Story'14 ?"

そういや、昨年の紅白歌合戦の話をしていなかったな。瞬間視聴率のニュースも出てたし、話題としての旬は過ぎ去ったのでちょうどいい。

歌には「物語」が必要である。バック・グラウンド・ストーリーという奴だが、当欄でも「宇多田ヒカルには物語を失っている」と何度も繰り返してきた。いい音楽は世の中に沢山あるのだが、その中で大衆に敷衍するのは皆の共感を呼ぶ「物語」の存在である。

その「物語」を、歌に対してどのレイヤーで組み込むか、というののバリエーションが豊富だったのが今回の紅白だ。いちばんの事前の目玉は「北島三郎の紅白引退花道」であり、サプライズとしては「大島優子(だっけ?)のグループ卒業発表」などがあった。しかし何といっても主役は、ドラマの"最終回"を紅白の舞台を使って表現した朝の連続テレビ小説…って今はもう言わないんだっけか、そう、前季の朝ドラ「あまちゃん」だったとしか言えんだろう、あれは。

今まで、多くの「ラインナップ"外"出演者」が"紅白ジャック""紅白を乗っ取る"と息巻いていたが、今回本当に乗っ取ってしまった感がある。それはつまり、本格的歌手(とされる人達)が背負ってきた、現実を舞台とした「物語」が、クドカンによる虚構の「物語」に敗北した瞬間でもあった。

もし、仮に。万が一にもなかっただろうが、宇多田ヒカルが出場して藤圭子の持ち歌を歌ったら、総てを破壊し尽くす「現実の物語」が舞台の上に展開された事だろう。想像してみるといい。37週連続1位の亡き母親の歌を、991万枚歌手のひとり娘が"まるで乗り移ったかのように"歌うのだ。これを目撃せずに居られるか。Be My Lastでもいいかー…『かあさんどうしてそだてたものまで自分でこわさなきゃならない日がくるの』…いや実現しないってそれ。

そういう意味では、宇多田ヒカルには「物語」がないのではなく、それと結び付けた"演出"をしないと言った方がいいのかもしれない。歌詞の中に自分の人生からの影響を反映させる事はあっても、彼女にとって現実は虚構と同じく素材のひとつでしかない、のか。何だかまるで「喜び5gも悲しみ5gも同じ5g」に通じるフラットな感性を感じさせる。

…んだけど、その割に彼女は我々に素の自分を見せ過ぎている。日常の中のエピソードというより、人間性の面において。総てを歌の中に封じ込めるのなら、「ミステリアスなひかるが来るよ!」のまんまでもよかったのかもしれない。歌手ですら音楽の為の"裏方"だという見方で。そこらへんが、この親娘の無防備な点だったのだろうか。ようわからん。

ただ、そのヒカルも昨今は…と、2010年以降の"活動"についての話をしようと思うんだけどそれはまた次回のお楽しみという事で。