無意識日記々

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思い出と思い入れ出たり入ったり

2010年の宇多田ヒカルは、自ら物語をけしかけた。彼女のキャリアの中でもレア中のレア・ケースといえた。それは、Goodbye HappinessのPromotion Videoである。

そこに於いて、ヒカルは過去の自分へのオマージュを盛り込んでみせた。それを、音楽ではなく映像によって成し遂げた所にポイントがある。

これが、例えば音楽的なオマージュだったらどうだったか。過去の名曲のフレーズを新曲に取り入れたりしたら、過去を懐かしむファンには多少感慨を与えるかもしれないが、大方にとっては「ああ、ネタ切れになったから宇多田ヒカルは活動休止するんだな」という印象を与えてしまっていたのではないだろうか。

しかし、現実は違った。Goodbye Happinessはまっさらの新曲で、そのスケール感は過去の名曲たちのそれをも上回った。その堂々たる佇まいがあるから、映像で衒いなく過去を振り返れたのだ。

宇多田ヒカルの過去はどこまでも眩い。眩しすぎて、本来なら新曲の方が霞んでしまう程だ、本来ならば。しかし、最後の最後に横綱を持ってきて、威風堂々、過去を慈しんで総て受け入れてみせた。12年間の物語を、ここに来て初めて引用してみせたのだ。

Goodbye Happinessはヒット・シングルとは言えないかもしれないが、この曲を"横綱"と呼ぶ事には、ヒカルも同意してくれるかもしれない。何故この曲がWILD LIFEのオープニングで歌われたのか。別にその時点での最新曲だから、ではない。ウタユナの時も言っていたように、ヒカルは総てのLIVEを"集大成"のつもりで演出している。即ち、3年前のあの時点のレパートリーを総て平等に眺めた時、単純にGoodbye Happinessが最もオープニングに相応しかったのだ。恐らく、その証拠に、次のLIVEまでにこれを上回ってオープニングに相応しい曲が生まれなかったら、次のオープニング曲もGoodbye Happinessになるのではないか。time will tellから初めて「置いたバトン(マイクだ)を再び拾いに来ました」みたいなベタな演出に流れない限り。

いやまぁそれはいい。その曲の強さがあって、初めてヒカルは"過去を頼る"事が出来た。常に新しく、常によりよいものを生み出そうというクリエーターとしての矜持。その為に、同じ事の繰り返しや焼き直しをしてこなかった。Fly Me To The MoonもEternallyも、トリビュート盤のI Love Youも、みんなとりなおしではなく当時の音源を使ったリミックスになっていた。結果論かもしれないが、ヒカルは過去におもねらず、利用する事もなく来ていた。

しかし、人は弱い。思い出に対する思い入れの深さが、"今目の前の"歌の感動を増幅させる。あまちゃん全156回を何度も観てきたような熱心なファンにとっては、暦の上ではディセンバー潮騒のメモリーも地元へ帰ろうも、そうでない人たちと較べて遙かに感動的な歌として響いているのだ。人の思い出と思い入れにリンクされる時、歌は果てしない力をもつ。それが、歌に物語が必要とされる理由である。

ヒカルは、その"効果"を、意識的に排除してきていたのかもしれない。クリエーターとして、目の前の歌だけで勝負したいという思いがあったかもしれない。いや、これからも結構きっとそうだろう。しかし、活動休止前に、音楽でではなく、映像で過去を振り返って人を感動させてみせた。最後まで譲らない部分は譲らなかった上に、物語を伴う歌の感動まで上乗せしてみせて、第一幕の幕を引いたのだ。堪らなくカッコいいなおまえ。

だから、ヒカルの歌に物語が伴わないからといって、別に嘆く事はないのである。そして、だからヒカルは紅白歌合戦に出ないのかな、とも思った。あの番組は、歌に過剰に意味と物語を求める。それを逆手にとって乗っ取ってみせたのがあまちゃんで、それ故しこたま痛快だったが、音楽自体のクォリティーにこだわるヒカルには、それは必要ない要素だったのだ。

にしても、そのように考えた時に、映像監督を"宇多田光"名義にした意味が、新たに浮き上がってくる…という話からまた次回。