無意識日記々

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5歳という画期

熊淡の納品報告がないと気もそぞろ過ぎて書き方に手がつかんなー。

そぞろ【漫ろ】心が落ち着かないさま

そういや「画期的」って言葉あるけど「画期」単独で使った試しがないなー。「時代の区切り」という意味だそうです。へー、知らんかった。


では前回の続きという訳でもないのですが、藤圭子さんについて。

私にとって彼女のイメージは、精神を病む前も病んだ後も"地続き"で、完全に同一人物なのだが、アマゾンの「流星ひとつ」のレビューを読んでみるとそういう見方をしている人は殆ど居ない。というか見当たらない。全部読んだ訳じゃないんだけども。ここらへんにも、見解の食い違いの種があるように思う。

私が"知っている"圭子さんのイメージは、その殆どがヒカル経由のものだ。ヒカルのデビュー以前は、"美人で歌が上手くてレコードを短期間に売りまくった伝説的な演歌歌手"というだけの、遠い存在だった。別に特に思い入れもなかったし、何より現役時代を知らないのでリアリティがなかった。また、前川清とどうとかといった類の情報はよく知らなかった。それよりも寧ろ、「圭子の夢は夜開く」というタイトルをきいて、当時は歌に歌手の名前をつけるのか、「伊代はまだ16だから〜♪」みたいなノリかよと思ったら随分歌が暗くてドスが効いていた、みたいな感じだった。

そんななので私の藤圭子像はヒカルの目を通した姿になっている。羨望やら尊敬やら恋慕やらが入り混じった複雑な感情の先に凛として真っ直ぐな精神が輝いている。それが、5歳以降彼女の病に付き合ってきた人の目を通って結実しているイメージなのだ。

これは、何なのだろうか。多角的な見方をしてみる。精神の病を長年患っていた、ときいて人は「その輝きはヒカルの願望だったのではないか」と言うかもしれない。つまりヒカルは、お母さんのイメージを、実像ではなく「こんなだったらよかったのに」という"理想像"として伝えていたのではないか、という風に。

これは、随分と意地悪な見方だが、圭子さんの前半の30年を肯定する余りこういう解釈に行き着いてしまう事も結構考えられるかもしれない。

勿論私はそうは思わない。精神の病、と呼ばれている状態はそういうものではないからだ。かっこいい時は圧倒的にかっこいい。ただ、ずっとそうである訳ではない、という話だろう。ならばヒカルが圭子さんの"輝き"をよく知っていたとしても何ら不思議はない。何というんだろう、まずはそこらへんから摺り合わせていかなきゃいけないんじゃないか。

私は"地続き"、と言ったが、ではそうは見えていない人たちは、なぜそうなっているのだろうか…という話からまた次回かな。