無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

「精神の病」について

「精神の病」について、ヒカルと照實さんの間で、表現が微妙に食い違っていた事を思い出そう。

ヒカルはきっぱりと、『彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。』と書いている。だから私も今回の一連のエントリーでも、それに倣ってこの表現を選んで使っている。

しかし、照實さんはこう言うのだ。

― 出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。

と。この心境、痛い程よくわかる。それは彼女の魅力と地続きの気質であって、いち個人として全く関係ない要素だという風には捉えられない。それも含めての藤圭子なのだと。それを「病」と断ずると、まるでその気質が、手術でガン細胞を切り取るように、ごっそりと無くす事が出来るような、いや、もし切り取って無くす事が出来ればそれがよい、という風な空気になってしまう。それは、藤圭子に惚れた男として、最も釈然としない事だ。なので、彼にとってそれは病ではなく彼女の人格や性格を形成する一部であったのだ。

しかし、それは社会的には通用しない。残念ながら。

なので、次の

― この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。

というような文章も、「光が5歳の頃圭子さんの病状が悪化した」と読み替えるのが、社会的には正しい。社会的には。


そんな中で「病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたこともありました」と語る彼の心境はどのようなものであったか。臍を噛むような、砂を噛むような思いではなかったのか。

私は、どうしたってそんな彼に同情してしまう、という心理的背景があると、ここに記しておく。もし過剰に、照實さんの肩をもっているように見えたとすれば、それはこういう訳なのだ。


しかし、そう考えると、光が「精神の病」としっかり書いているのは、何だろう、底無しの悲しみを覗き込んだような気分になるのだが、毅然としたものだなぁ。強い人だよ、本当に。