無意識日記々

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身近な国際問題

音楽に対する宗教観の影響がいちばんわかりやすく出るのは勿論歌詞であって、それを考えると日本語での歌に関しては余り影響がないかもしれない。あるとすれば、まず英語詞の方に影響が出て、それが日本語の方に伝播して、という順序になるだろうか。

Hikaruの非キリスト教的世界観の中で最も中核を占めるのが輪廻転生の思想である。先日触れた愛のアンセムもそうだし、Be My Lastは輪廻転生の映画の主題歌だ。何より、ぼくはくまで「ゼンセ」が歌われているのが決定的だろう。ここがNHK側によって認められていなかったらみんなのうたの話が流れてしまうおそれがあったというのだから、ここの箇所が如何に大切だったかがわかる。もっとも、恐らくHikaruからすれば「作詞者の意向を汲もうとしないNHK側の態度」全体が気に入らなかったのだろうし、そんなだから紅白歌合戦も断られ続けるんだと思うがまぁそれはいいや。

何しろ、「死んだら天国に召される」救済の物語こそがキリスト教が世界中に敷衍した原動力なので、ここを違えるわけにはいかない。何しろ"思想"の問題だから、「作詞は仕事だから」と割り切り切れるものでもない。ここら辺のバランスが難しい。結論は例によって「彼の家族がどれ位寛容か」に絞られているのでそこはそれ以上考えないが、幾ら赦して貰えるからといって「じゃあ」となるHikaruでもあるまい。家族である以上敬意と尊重は生きてる間ずっとテーマになりえるのだ。

或いは逆に踏み込むという発想もある。東洋人という事を利用して、「仏教圏ではこのように考えます」というポジションを家族の中に見いだしてしまうのだ。お互いの宗教観を尊重し合おう、という感じだ。いうなればまぁ、ベジタリアンと結婚したら晩御飯のメニュー2種類用意するか的な。

ただこれも、Hikaruからすれば弱い。今まで仏教徒だったのならまだしも、仏教的世界観にも共感する部分がある、といった"中途半端な"スタンスだから、説得力に欠ける。こういう時に、「私は○○教徒だから」と突き放せないのも痛い。となれば実地上は、「彼も地元で結婚式を挙げたいというし、まぁ付き合ってやるか」という行動をとるだろう。国際的には、そういった認知されていないアイデンティティを持つ、或いは認知されたアイデンティティを持たない人は、弱い。ここらへんをどう潜り抜けるかが今後の課題だろう。

あれ、作詞の話まで戻れなかったな。続きはまた次回。