無意識日記々

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実感としての世代差

ヤンキースの田中投手が負けた。前に負けたのがどれ位前かというと何と桜流しのリリースより更に前である。人間活動中の宇多田ヒカルの新曲リリースペースより長い期間負けなかったとは天晴れだな。号外出たのかな?(負けで出たら史上初ちゃうやろか)

更にその前の新曲となるとSCv2になるのか。桜流しより更に二年前。人間活動中だからマテリアルのリリースがあるだけでも有り難いが、改めて気長な感じではある。間に熊淡なんて挟んだから尚更だ。

更に々々。「宇多田ヒカル名義のオリジナル・アルバム」となるともう6年も出ていない。今日がPrisoner Of Loveのリリース6周年だから、つまり最後のCDシングルからもう6年経ったという事でもある。宇多田ヒカル史上最高の一枚でシングルCDの歴史の幕を閉じていたというのなら美しい。即ちもうCDシングルのリリースは未来永劫ありません、というのならね。

当日記では繰り返し「アルバム」という形態の必然性について議論してきた。組曲やコンセプト・アルバムなら兎も角、どういう因果で集められたかも定かではない楽曲群をまとめて聞かされて、というのは配信時代には似つかわしくない。いや、CDプレイヤーにスキップボタンが出来た頃からかもしれない。カセットプレイヤーにもあったけどねスキップボタン。

6年という歳月である。Utadaをスルーしている人は多かろうし、HEART STATIONとSCv2の売上の差を考えると、何というのだろう、「いちばん大きなニーズはどこにあるのか」という不安に駆られる。折に触れて指摘してきたように、小中高校は6年とか3年とかが基準となっている。これ位のサイクルで人の生活スタイルは変化し、交友関係も入れ替わったりする。そんな中で「宇多田ヒカル」の居場所とは一体何処なのだろうかと。

若い子たちには若い才能が沢山居る。彼らに15年選手は必要ない。そして、ヒカルのファンだった人間の殆どが社会人になったり、或いは結婚したりして離れている。かなり空洞である。

欧米のトップアーティストを讃える常として、その世代の幅広さがある。父が息子を母が娘を連れて、或いは兄が弟をとか姉が妹をとか何でもいい。上の世代が自分たちにとっての偉大なアーティストたちのライブに下の世代を連れていくのだ。つまり、彼らの場合3年とか6年とか経つと、或いは結婚して家庭を持つと「ファンが増える」のである。結婚を気にファンをやめるどころかめっきり音楽を聴かなくなるのがスタンダードな日本とはえらい違いだが、確かにそう考えでもしないと50代60代の大物アーティストたちが毎年のようにワールドツアーの規模を大きくしていける理由がわからない。この差はデカい。

やはり、今週のキーワードは「新しい家族」なのだ。何でよりによってTBSドラマのタイトルが「家族狩り」だなんていうネガティヴな方面への繋がり具合を感じさせているんだろうという疑問(不満)は尽きないものの、今回の結婚は前回にも増して「新しい家族との結婚」という色合いが強いように思う。というか私が思いたがっていると言った方が正確か。

キコとヒカルの間に子が出来る前に、彼らに甥や姪、歳の離れた従兄弟従姉妹などは出来やしないだろうか。新しく家族親族になった日本人のお姉さんの歌声はどんなのだろう。興味を持ってもらった時に、ヒカルに彼らに聴かせたい持ち歌はあるだろうか。そこが鍵になる。まずカイより始めよ、だ(変換がわからなかった)。

そう考えると、多国籍歌詞に生まれ変わった(らいいなと私が勝手に思っている)"ぼくはくま"はやはり最強の歌ではないか。あの曲調は、万国共通で童謡だと思う。そればかりという訳にはいかないだろうが、新しい家族と出会って、彼らにも聴いて貰えるような歌が書けたらなとヒカルが思い始めれば、日本邦楽市場での「宇多田ヒカルの立場」が劇的に変わるかもしれない。6年という歳月を、逆手に取ろう。