無意識日記々

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奥義のかなめ

さてキツめのテーマについて書こうか。本人は読まない方がいいかもしれない。

光が、自分も将来母のような運命を辿るかもしれないと不安になっている可能性がある、と私は書いた事があるかもしれない。本当にそんな不安が存在するのか、或いは、そもそもそんな事について語って何かいい事があるのか、という疑問は当然私の中にある。それも踏まえた上で、もう少し考えてみる。

「あのようになるのではないかという不安」という短絡的な書き方自体、誤解を招く。或いは誤解そのものである。なぜなら、光は死ぬまで、いや、勿論今でもだ、お母さんの事が好きなままだ。途中にいろんな事があったかもしれないが、ここが崩れた事は恐らく…いや、確実に、一度もない。光の母に対する愛情は、そういう性質のものではないからだ。自分を傷付けるような言葉…罵詈雑言とすら周りから言われそうな内容を母から投げかけられたとしても、変質する感情ではない。なんか、そんな気がする。

勿論、病人相手なのだから、途中でウンザリしてしまった事もあるだろう。もう嫌だと総てを投げ出したくなる事もあったかもしれないし、時には魔がさして「早く死んでしまえばいいのに」とすら思った事があるかもしれない―たとえそんな事があったとしても、母親を好きな気持ちは変わらないのだ。こうして言葉を並べると不思議な感じがするけれど、そうだな、私はそこに矛盾を感じない。それはそうなるだろうな、と思うだけだ。

となると、更に変な話だが、自分自身が同じような病気になる事それだけでは、不安とか心配は生じない。極端な話、自殺する可能性すら、不安や恐怖の対象ではない。もし自分がそうなった時に、同じように自分が愛情を感じている人たちや、自分に対して愛情を感じてくれている人たちに対して、よくない事をするんだろうな、それはとてもよくないな、というのであれば、それは不安であり心配であり恐怖である。自分がそうなったとしても、愛する母と同じになるだけで、これも変な言い方だが、それ自体は、だから、別にイヤじゃない。そうなったらそうなっただけのことだろう、と。そこにどう他者が介在してくるかが問題で、だとすればいちばんの不安は、そう、自分の娘や息子に対して、自分が母にされたようにする事になる。

これは確かに、怖い。それは何なのだろう、という感じだ。そもそも前提から疑いたくなるターンは大体ここらへんのタイミングで生ずる。「そもそも、光がそんな風になるとは思えない」、と。それならそれでいい。私は本当に無駄口、いやネガティヴ・マウスを叩いている事になるな。

よくない事が起こったら、よくないなぁ。素朴だし、殆どトートロジーだが、このゆるやかな感情が奥義なんだと思っている。他はテケトーでいいのだ。このあやふやな感情がある限りにおいては、何とかなるかはわからないが、何とかしようという力はいつのまにかはたらく。それは、信じる必要すらない。ぬめぬめと、ただ生きている。南方熊楠が粘菌に粘着した理由がわかる気がする。そういえば彼も熊か。生きるという事の秘密が、粘菌にはわかりやすい形で隠されている雰囲気があるのだ。ただの比喩でこう言い切る俺も大概なんだが。

そういう意味では、なるようにしかならないのだが、今の光は、ちょっと強すぎるのかもしれない。頼もしくあろうとし過ぎなのかもしれない。直接年齢が関係あるかどうかを判断出来るほどフランチェスコについて我々は知っている訳ではないが、随分年下なので、光は頼もしいお姉さん役なのかもしれない。しかし、前の結婚なんて何歳年上だっけ、だったのに、光ってば…いや、推測でものを話すのはここではやめておくか。あんまり年齢は関係ないかもしれない。当たって砕けない程度に当たれる人であればいい。


今日のエントリーは若い人には特に難しいかもしれない。今のBGMはデビュー40周年を迎えたJUDAS PRIESTの最新作である。これは自分用のメモだ。この謎めいた文章(突然粘菌の話が出てきたり)の意味を思い出す為に、未来の私はこの「Redeemer Of Souls」を引っ張り出してくるだろう。そして、「ああ、そうだったっけか」とひとりで合点するのである。書くとはそういう事だ。そしてそれが、私の私に対する優しさみたいなもんかもしれない。光に対しても、だから、優しく振る舞えるかもしれない。こんぐらがっているが、怪力の赤ん坊がひとり出てきたら総て吹っ飛んで終わりである。そう考えたら、やっと笑えてくるような気がした。大人には大人の弱さがあるのだわよ。