無意識日記々

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うしろの darling だあれ?

『あんたになにがわかるんだい?』

まず疑問に思うのはこの"あんた"が誰なのかという点だ。果たして、darlingと同じ人なのか。

この疑問に答えるのは難しい。しかし、次の一節はヒントになるかもしれない。

『かまうのはなぜ?(さあね)』

ここは、主語の解釈として2つある。"私"と"あんた"だ。それぞれの解釈に従って書き足すと、

「私があんたにかまうのはなぜ?(さあね)』

「あんたが私にかまうのはなぜ?(さあね)」

という風になる。随分と、意味が違う。

ここに至るまでの問いは、まだ自問自答と言って通用していた。

『どんなにつらい時でさえ歌うのはなぜ?(さあね)』
『こんなに寒い夜にさえ
歌うのはだれ?(だあれ)』
『どんなにつらい時でさえ生きるのはなぜ?(さあね)』
『どんなに長い夜でさえ明けるはずよね?(さあね)』

また、そこに差し挟まれる2つの問い掛けは、"darling"に向けられたものとなっている。

『離れてくのはなぜ? Darling, darling ah』
『もう何年前の話だい?囚われたままだね Darling darling ah』

この流れの中での『かまうのはなぜ?』なのだ。どう解釈すべきか。

いちばんシンプルな解釈は、総てが"darling"に向けられた「?」だというものだ。メッセージとしては非常にストレートである。

次に、『(さあね)』と『(だあれ)』が来るのが自問自答、"darling"が出てくるのだけが文字通りdarlingに呼びかけているもの、という分け方。

更に、さあねとだあれで問い掛け先が変わっているかもしれない、というより細かい分け方も考えられる。

率直に言って、どの解釈が妥当かはわからない。ただ、『かまう』という動詞が、果たして自問自答に相応しいのか、といえば、やはり少し違和感がある。歌うのも生きるのも1人で出来る事だし、夜は勝手に明けるものだが、かまうのには必ず他者が必要だ。

前回指摘したように、この歌では"あんた"(とdarling)以外の2人称は出てこない。"かまう"ことのできる相手は一見不在である。

ここさえも自問自答の一環、という解釈も勿論できる。自分自身にかまう。それはそれでヒカルなら言いそうな事だ。とすれば、この"あんた"は主人公自身、「私に何がわかっているというのか?」という悲嘆の表現となる。


その解釈がいちばんもっともらしい、という事もない。次回は他の解釈についても触れてみよう。