無意識日記々

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『Forevermore』歌詞誤読祭り

「歌詞の内容をダンスで表現する」―これは、良いか悪いかよくわからない。時に歌詞の解釈を限定するからだ。

歌詞は誤読も醍醐味である。確かに、作詞者の意図は大事だが、誤読によって新たな展望が開ける可能性を排除するのも野暮である。無論、優れた歌詞…否、"よく考え込まれた歌詞"であればあるほど、そういった可能性はとりわけ低くなってはいくのだが。

古くは、『First Love』の『明日の今頃にはわたしはきっと泣いてるあなたを想ってるんだろう』問題がある。これは『明日の今頃にはわたしはきっと泣いてる/(わたしは)あなたを想ってるんだろう』なのか、『明日の今頃には、わたしはきっと"泣いてるあなた"を想ってるんだろう』なのか、一体どちらなのだという問題だった。

文脈から"作詞者の意図"という意味の答は明らかで前者の方なのだが、後者の解釈は「わたしは、泣くだけでなく、あなたを泣かせる理由もあった」という"新しい展望"が開けるという意味で秀逸であった。もしかしたら、"わたし"の方が"あなた"をフッたのか? いや、フッたのは"あなた"で間違いないけれど、まだどこか心残りがある?抜き差しならない事情で別れを切り出さざるを得なかった?などなど、途端に妄想が広がる。後者は"作詞者の意図"としては不正解だが、クリエイティブなインスピレーションを導く機能としては大正解だ。


『Forevermore』にも当初から類似の問題があった。『確かな足取りで家路につく人が溢れる大通りを避けて』は、『「"確かな足取りで家路につく人が溢れる"大通り」を避けて』なのか、『確かな足取りで家路につく人が、溢れる大通りを避けて』なのか、はたまた、『確かな足取りで家路につく。人が溢れる大通りを避けて』なのか、一体どれなんだという問題だ。

しかし、これは『First Love』ほどには面白くならない。まず「作詞者の意図」は1番目であり、主人公は「沢山いる"確かな足取りで家路につく人たち"とは異なる足取りで歩く人」だというのが"正解"だ。2番目のは「確かな足取りで歩く人」がなぜか大通りを避けるという、あんた裏道御存知なのかいな解釈だが、やはり何が『溢れる』のかわからない点が引っかかってしまう。3番目も同様で、今度は主人公が裏道を通る者になるのだが、確かな足取りから壊れたイヤホンにどう繋ぐのかがわかりづらい。「足取りは確かなのになぜかイヤホンが壊れている」というのは確かにちょっとそそられる設定ではあるのだけど。

という訳で『Forevermore』の「わざと誤読大会」は「First Love」ほど盛り上がらないのよね―と思ってしまう所だが実はこの歌にはもう一つ"誤読"できる箇所があるのだった。次回に続くよ。