無意識日記々

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一枚のアルバムになった

さてどうアプローチしようか、悩みどころゾーンに突入中。

ちょっと井上陽水のカバーが百点満点過ぎる。あれをドアタマでやられた事で、他のアーティストたちに対するプレッシャーが減ったとみるべきかいや圧力が増したとみるべくか。あれに合わせてハードルを上げてしまうと他のカバーは総て減点法による評価になってしまいかねない。いや1ヶ月間"愚痴と難癖"で通してきたんだからそれでもいいんだけれども。

本音を言うなら、自分のテンションに戻りたい。自分が毎日聴いてる歌たちの新しい姿。こんな日記を日々書いていると「暫くあの曲聴いてないなぁ」というのが殆ど無い為、それはもうどの曲も親しみのあるものばかり。まるで毎日会ってる友達が新奇なお化粧を施して思いもかけないような場所へ出掛けていくのを見送るような気分。それはもう、何というか、日常と地続きの非日常である。不倫とか浮気ってこんな感じだろうか…って物騒な事を言うんじゃないよ。

って独り語りはもういいか。話を整理しよう。

盛り沢山である。「宇多うた」アルバムには語るべき事が山ほどある、一方、ハイレゾインパクトについても語らねばならない。いや、ハイレゾ化とリマスターの足し算、と言った方がいいか。何しろ30曲以上が新しいマスタリングで登場したのだ。それはまるで、毎日会ってる友達の服が、いつもと同じのを着ているのにまっさらな新品になっているような不思議さである。あぁ、そこの柄は本当はそんな風になっていたんだねぇ、とか、色落ちする前はそんなに鮮やかだったんだ、とかそんな感じ。服を新調するんだったら今までのとおんなじのじゃなくて違うヤツの新品を買えばいいのに、とは皆思うだろうが、愛着のある服というのは買い替えてでもいつまでも着続けたかったりするものなのだ。いやそんなヤツは少数派だってわかっちゃあいるけれどさー。

兎に角、時間が無くてまだ全部を聴いていない。なので全貌を把握してから全体の構図について語る、というステップは幾らか先の話になるだろう。まずはディテールからいこうか。


そうだな、ではさっきの話の続き。井上陽水の存在感である。

椎名林檎の歌が"心細さ満載"だという話はした。彼女がこのアルバムで歌うのは既定路線だったし皆が期待していたのも周知だが、だからといってこのヒカルちんへの私信の如きLettersが風避けのように前面に出てアルバム全体を引っ張るべきか、となると荷が重い。というのは、これはカバーの神髄とかではないからだ。

このLettersは、ただ林檎嬢がヒカルへの思いを伝えたくて選んだ曲だ。最初のオファーのtravelingを蹴ってまで。それは、誰の青写真にもない選曲で、至極私的で周りを省みない歌だった。椎名林檎にそれが許される機会はそうそうない。「思いの丈をぶつける」無防備で裸な歌唱は、あクマでこの世界の中で大切に護られながら光り輝く。

勿論、椎名林檎井上陽水の間には何らの相互作用もなく、それ故これは途轍もなくただの"結果オーライ"なのだが、一曲目井上陽水SAKURAドロップス二曲目椎名林檎Lettersという曲順は完璧である。井上陽水の徹底したプロフェッショナリズムで極上の娯楽性を提供され聴き手の中に確実に生まれる"安心"を揺籃にして、林檎嬢の切ない歌声は響く空間を確保できる。陽水が「これはカバーアルバムで、こういう事をやる一時間なのです。」と歌で宣言した後だからこそ、我々は林檎嬢の歌をただそのまま聴く事ができるのだ。

もしただ一曲だけ椎名林檎のLettersを聴いたとしても、それは勿論今皆さんが感じている通りの素晴らしいものだけれど、それは「ソングカバーアルバム」という体裁への筋道とはなりえない。奇跡的な偶然によって、井上陽水が体裁を作り、林檎嬢が私信を出して、この二曲の連続によってこの13曲は「ひとつの作品」としての枠組みを手に入れたのだ。全くこの曲順は見事という他はない。試しに林檎嬢から聞き始めてみれば、それぞれの歌が離れ離れになってしまうのがわかるはず。

誰が企んだ訳でもないのに、この作品は「一枚のアルバム」としての作品性を得るに至った。当初考えていたのとは違って、案外宇多田ヒカルの歴史の中でもかなり重要な位置付けを得る作品になってきたかもしれない。ちょっと襟を正したい気分にござります。