無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

林檎とヒカルの笑みがある図

ゆみちんとひかるちんが陰陽影日向切替可能と言ってもそこにはハッキリと序列がある。椎名林檎宇多田ヒカルの復帰を待望していたかもしれないが、ヒカルの活動は椎名林檎に左右されない。勇気づけられるとか励まされるとか刺激になるとか量的で副次的な効果は友人同士として持っているだろうし椎名林檎のしてる事でヒカルが出来そうもない事且つ民衆に大変ニーズのある事も幾らでもあるけれども、もうただただシンプルに、市場上椎名林檎宇多田ヒカルの存在に精神的に依拠依存しているのだ。ここには明らかな主従がある。否定をしても仕方がない。

その意味では間違いなくヒカルは太陽で椎名林檎は月なのだ。太陽無くして月は輝かないが月があろうがなかろうが太陽は揺るぎない。だが地上にへばりつく我々平民にとっては昼夜の違いがあるだけで半日間の天空の主である点で両者は対称・対等なのである。

一方、忘れ得ぬ点としては、ヒカルにとって太陽は常に母の暗喩であり続けてきたこと。これは外せない。椎名林檎といえば新宿系自作自演屋であり「新宿の女」との異名をとる(ってそういうタイトルの歌を歌っただけですが)藤圭子の後継者としては寧ろ実子のヒカルより相応しいとまで言われてきた人だ(……誰に?(←Wikipediaっぽく))。ヒカルからみれば生きてる人の中でいちばん「太陽に似ている人」或いは「太陽に近い人」である可能性もある。

然して、浪漫算盤の「太陽と月」は気紛れに入れ代わるのではなく、恐らくそれを見る人に左右されているのではないか。椎名林檎からみれば宇多田ヒカルは紛れも無く太陽だし、ヒカルからみると今度は椎名林檎が太陽にみえる。その時それぞれは自分のことを月だと思っている訳だ。だから画面上で林檎から見た目線のヒカルは太陽でありヒカルから見た目線の林檎もまた太陽なのだろう。月とは己の、太陽とは輝かしい相手の比喩だと思ってミュージック・ビデオを眺めていると両者の相手方に対する敬愛がなんともいじらしくもありかっこよくもあり、もうこの2人でアルバム1枚作っちゃった方がいいんじゃないのという気すらしてきた。ただ、プロジェクト名を安直に「倫敦事変」にする事だけは避けてうただきたいがな……(笑々)。

でも、現時点でミニアルバム程度なら作れるんだよね。デュエットソングスタジオテイクが3曲にライブ音源が1曲(一応未発表)、それにお互いのカバーが『Letters』と『丸ノ内サディスティック』か、更にヒカルはボヘサマやトレボヘでワンフレーズくらいモノマネを披露しているからそれをシークレット・トラックとして仕込もう。結構美味しい1枚になること請け合い。更にまぁ新しくもう1曲デュエットカバーでも入れれば体裁は整うんじゃないの。でもこれってレコード会社が同じうちにしとくべきだったなーちきしょー。まぁそんな妄想も楽しい金曜の夜なのですよっと。