無意識日記々

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「生まれた時から歌だった」

この日記は、世の中に渦巻くきな臭い話題から一旦離れて宇多田ヒカルの話を聞けるという事で立ち寄る人も少なくない筈だ。事実、私自身からしてそうだし。「今日は誰ともヒカルの話をしなかったな…」と少し寂しくなった貴方がふぃっと一息つける場所でありたい。私もここで深呼吸している。

一連の話題に関して結論はいつも一定している。「国や言語や人種を超えて互いに文化を育み交流をはかろう」である。ああいった話題に乗る事自体向こうの思う壺なのだから。「戦争反対!」と叫んでいる時点で相手のペースだ。賛成派と反対派に分断して敵対しあう構図を作っているんだものね。我々のやるべきは徹頭徹尾「平和の魅力」を振り撒く事だ。戦争をしたがっている人たちの意見を、それでも尊重し、闇雲に否定せず、ただひたすらに「僕らの興味のある事はこちら」と言い続ける。何故侵略戦争なんかするかというと、他にそれよりしたい事がないからだ。彼らも、他にしたい事があればそちらを選ぶ。確かに、何の効き目もないかもしれないが、戦争反対と言って反戦活動して効き目があるかと言われると唸ってしまうのだ。寧ろ火に油を注いでいるんじゃないかという気さえする。相手の土俵に上がってはいけない。

しかし、全くの無知無防備だと本当に危ない。ここがいちばん難しい。ころっと騙される。「あの国は悪いヤツで今度この国に攻めてくるんだ」と言われて「そうなのか!」と鵜呑みにしてしまうような事があったら…いや、別にあってもいいのか。ただ頑なに「平和に行こう」と言い続けるだけじゃないか。あ、そんなもんだね。歌の話をしようか。


「歌」というのは不思議なもので、言葉と音楽(メロディー・リズム・ハーモニー)の組み合わせで出来ている。なので、時々「果たして歌は音楽と言えるのだろうか?」と疑問に思う事がある。

音楽は、数少ない、"突然やってきた宇宙人に我々の文化をいち早く知ってもらうのに最も適した営み"である。漫画を読んでもらおうにも、扱われている言語、コマ割、漫符、設定や眼球のとんでもない巨大さなど事前に説明すべき約束事が多すぎる。演劇や映画もそう。絵画も「何が描かれているか」についての予備知識が必要だ。音楽にはそれがない。

他には、花火とか舞踏とかだろうか。直接的に、その美しさで感動や感情を伝えられる。特に器楽演奏は、音波を検知する器官さえ備えていればとても直接的である。

言葉とは約束事の塊だ。いや、言葉とは約束である、と言い切ろう。事前の合意、予備知識、それそのものである。言葉と音楽は、約束を隔ててまるで反対側にあるものだ。

歌は、それを繋ぎ合わせてしまう。融合させてしまう。不思議だ。矛盾している。しかしもっと不思議なのは、我々は歌を歌っている時、歌を聴いている時、歌を繋ぎ合わせや融合だと思っていない事だ。歌を言葉とメロディーに分解させたりしやしない。歌は歌なのだ。

ヒカルの作詞術は、そう考えると、とても"不自然"かもしれない。殆どの曲はメロディーが先行していて、そこに歌詞を載せていく。私達は、出来上がった歌を聴いて、それが歌である事を疑わない。特に、「あぁ、これは元々あったメロディーに歌詞を乗せたものだな」とは思わない。誰とは言わないが、何の技巧も工夫もなくクラシックのメロディーに日本語を乗せている歌を聴くとヒカルの作詞が如何に巧まれているか改めて痛感する。

この、"自然な不自然"、いや"不自然な自然"と言った方が適切か、それを聴く度、「必ず答がある筈だ」というヒカルの作詞家としての信念或いは直感は素晴らしいなと痛感する。歌がただただ歌になればなるほど、その自然さの裏に隠された努力の集積に敬意を表したくなる。

しかし、不自然な自然或いは作られた自然は天然の自然にはかなわない。最初からただの歌として生まれた"ぼくはくま"のように、ヒカルにまた「生まれた時からメロディーと歌詞が分かたれず一緒だった」つまり「生まれた時から歌だった」という歌を作れたとすれば、それはヒカルにとって新たな最高傑作になるかもしれない。確かにそれは、降ってくるのを待つしかないが、真の努力をした人の所にきっと降ってくる筈だ、と珍しくロマンティックな事を言って今夜は締め括るとしよう。あーやっと調子が戻ってきたかな?