無意識日記々

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居もしない敵、ありもしない脅威

もう一言付言しておくと、国と国を「敵」同士でみる事自体、虚構・フィクションである。世の中の誰かと誰かの利害が対立する事はあっても、国という機関なり概念を敵対させる為には、その個人同士の対立構造を繰り入れていく必要がある。こどもの喧嘩が親同士の喧嘩になって、みたいな感じで。つまり、「仮想敵」という言い方自体誤解である。最初から敵とは仮想の存在なのだから。何らかの"恣意的な設定"をして初めて軍は動く。システムの都合の話である。

「もし敵が攻めてきたらどうするんだ」という問題設定自体、既に仮想である。だが、"不安を煽る"という手法が、特にこの国で如何に効果的なのかはこの20年沢山見せられてきた。本当にこれでもかという位に、居もしない"敵"、ありもしない"脅威"に怯える発言の数々をみてきた。どこまで本音なのかはしらないが、嘘だろうとそういう発言が流通している時点で、空気はそれを歓迎しているのだ。皆さんもう一度ワンピースの魚人島編、ホーディ・ジョーンズのエピソードを読み返しておいてくらはい。ほんとあの大長編は今や我々の世代のバイブル代わりだな。といっても主役が海賊で無法者なので、権威を嫌っているのですが。


ヒカルの"平和への願い"がどのようなものか、熊害問題に対する態度は試金石となりえる。我々は熊が実際にどんな生態の生物なのか知らない。この中に熊と1日一緒に過ごした事のある人はどれくらい居るだろう。居ても1人2人だろう。殆どがただの伝聞で知っているだけだ。一方で、様々な「熊による人の虐殺」のニュースの信憑性を疑うのも難しい。我々は不安定な状況の中に居る。果たして「熊」は人間の味方だろうか、敵だろうか。

この構図は、人間対人間、国対国のそれとさして変わらない。そしていつもの"カテゴリー・エラー"である。熊といっても、一頭々々別の個体である。なかには人を積極的に襲う個体もあるかもわからないし、一切人に近付かない熊も居るかもしれない。ひとくくりに「熊」と呼んで果たして問題は解決するのか。まぁその前に熊にもヒグマとかツキノワグマとか種類があるんだけどそこはそそくさと省略。

犬猫を飼っている人は、自分の飼っている彼らと"心が通じ合っている"と感じる機会が無いと言い切るのは難しい。幼少の頃から教育すれば、ヒトでなくても意志の疎通らしきものは育まれるのだ。熊にもそういった可能性があるかどうか、私は知らない。それに、その可能性があるとしても現実の野生の個体への影響は薄いだろう。ヒカルが、どこらへんに狙いを定めている(いた)か知る由もないが、現実を目の前にして自分が何をどうしたかったのか、ある程度見極めがついていたのならいいんだけどな。