二番以降も大体同じなので息継ぎ談義はここで打ち止め。
ただ、色んな曲をブレスに注目して聴いてみれば様々な発見がある。ここでは入れる、ここでは入れない。伸ばした音からどれ位の長さで切り上げてブレスに移行するか、といった基本的なポイントを追うだけでもその効果の程がわかる筈だ。大きくメロディーに寄り添っている。
曲の中には、"Prisoner Of Love"のように「どこで息継ぎするんじゃい」な曲もあって、流石にこういった楽曲ではメロディーの流れというよりシンプルに「息が続かないから」という理由でブレスが入る場合もあるが、そのブレス音をマイクに載せるか否かもまたヒカルの選択に委ねられている。CDではブレス音が聞こえないのにLIVEバージョンでは入っていたりね。初恋の『タバ/コの』の切れ目なんかはその一例だろう。
結局、何が言いたかったかといえば、ヒカルの歌にある"間"或いは"間合い"といったものを語る時にブレスの技術は欠かせないという話だ。小刻みにブレスを入れる事で切迫感や焦燥感を演出したり、或いはブレスをしない事でたたみかけたり、反対にスケール大きく歌い上げたりする。平たく言えばヒカルは「歌っていない所でも歌っている」のだ。その点は踏まえておいて貰いたい。
そして、言うまでもなく"間"とは"呼吸"の事である。呼吸とはリズムであり、また環境との対話である。歌に呼吸は欠かせないものだし、故に歌は必ず途切れる。そしてその切れ目切れ目を穿つのがリズムであり、その切れ目を目印にして音を繋いで紡いでいくのがメロディーだ。してみればメロディーとリズムは空間と時間であって、存在の必然である。歌い手は常に、その意味で、宇宙の中に居場所を見つけなければならない。
筆が滑った。今夜はそっち方面に話を進めるつもりはなかったのだった。
あまり人の書いたものに対してただ付け加えるのはやるべきじゃないな。相手との対話がなけろばリズムが狂う。まぁそれはいい。
そうそう、そろそろ今年の総括をする時季だわね、という話に持っていきたいんだった。もうあと2日しかないからね、今年は。結婚したんだったね〜そういえば。危うく忘れ去るところだったぜ。旦那様があんまり前面に出て来ないから印象が薄いのか、いやその前にヒカルが出て来てないから影響があるとしてもわかりにくいのか。やれやれ。
歌手としてラブソングを歌う以上、恋愛経験について詮索されるのは仕方がない。「じゃああんたはコナン・ドイルに殺人事件の経験があったとでも言うのかね?」とお決まりの返しをされそうだが、作詞の話というよりは、歌手として顔を出して歌う事の方だ。
現代では「語り部」はあまり顔を出さない約束になっている。馴染み深いナレーターの人の顔を知っている人は極稀だ。銀河万丈の顔知ってる? 俺でもピンと来ない。そこの差なのだ。もしヒカルがただの作詞家ならプライベートの恋愛経験云々なんて訊かれない。そもそもインタビュー自体殆どされないだろうが。
時々、役者みたいに役名で歌ったりしないのかな、とは思う。歌ごとに衣装を変え名前を変え、性格を変えてそれに沿った歌詞の歌を歌う。そういう歌手が殆ど居ないのも不思議な気がする。誰かやっててもいいのにな。宇多田ヒカルがそうするべき、とは勿論思わないが、一度くらいそういった演劇的プロジェクトのもとで歌うコンサートを開くのもアリかもしれない。
なかなか、顔を出して「私」とか「あなた」とかテレビで歌ってしまうと、その人の言葉という印象が出てしまう。そう考えると関白宣言を歌うさだまさしはうまくやってるな、役者だな、とか思ってしまうが、大半の人はヒカルにも歌詞を押し付けるような事はしないか。でも、なんだかんだで毎回どこか私小説的な歌詞の歌があったりするので、どうしても結びつけて考えてしまう。次もきっと、「あぁこれは今の結婚について歌った歌だ」とか邪推しちゃうんだろうなぁ。あぁやんなっちゃうよ、やれやれ。