無意識日記々

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見せたのは見られていたから

ヒカルが1stアルバムを作った時(正確にはPreciousも合わせて"最初の2枚を作った時まで")は、ファンの顔は見えていなかった筈である。居なかったんだから。居たとしても極僅か。もしその頃からずっとファンだという方がいらっしゃったら是非話を聞いてみたいんだけどそれはさておき。

つまり、あの「First Love」アルバムは、誰に向けて作られたものでもない、或いは、極個人的な繋がりの相手しか想定されていない、若しくは、ただ漠然と"みんな"を想定して作られた作品だったといえる筈だ。

2nd以降のヒカルは、如何にして自分自身を見せていくかに腐心していた。それは、もう四六時中"見られている視線"から逃れ得なかったからだ。常に、誰かしらの目を意識して生きていた。それは特定少数かもしれないし不特定多数かもしれないしマスメディアとか或いは妄想や幻想かもしれないが、「見せる」という意識は「見られている」という事実が無ければ成り立たない。誰も見ていない所で裸になったからってそれはお風呂に入れるだけなのだから。

今、ヒカルはどんな心境だろう。かなりの"目"が減った筈だ。恐らく、この、少数残っている「何があってもじーっとこちらを見ている」奇特な集団はうざったらしいかもしれないが、Pop Music Artistとして、「誰に向けて作ったらいいかわからない不安」と「目線を気にしなくていい自由」は表裏一体である。

宇多田ヒカルへの期待というのは結構passiveで、「居なきゃ居ないで別に」という感じだろう。特にこの5年間、居ないなりに物事は進んでいるのだから。それはそれで寂しいような気がするが、いざ戻ってきたら怒涛のような「待ってました」コールが湧き上がるのだから、何て言うかな、注意は必要だろう。


問題なのは、そうやってファンや大衆の目は気にせずに作ったアルバムが一番売れたという現実だ。気にしていたとしてもそれは想像の域を出ず、デビュー後に"実際に味わってきた何百万人の人たちからの視線"とは別物であっただろう。で、今は少しそれに近い状況を作り出している。やってみなければわからないが、思うに、ヒカルの場合、"みんな"とか"大衆"とか意識せずとも、ただ作れば聴けるものになっちゃうんじゃないかと。自分をどこまで見せるかとかそういう事は気にせずに、嘘吐いたり本当の事言ってみたり見栄を張ったり弱音を吐いてみたり、色々でいいんじゃないかと。なんだかそういう気分になってきた。ただ作る。シンプルだがきっと難しい。ブランクはチャンスである。そうそう同じ手は使えない。どう出るか楽しみである。