無意識日記々

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大衆考察

ヒカルは常々自分はPop Musicを作っていると公言してきた。故にこちらも文脈上「一般人」とか「皆」とか「世間は」とかデカめな主語を持ち出して話すことが多い。その度に「(それって誰のこと?)」と付け加えてきたのだが今回はそれについての話。

大衆というのは人の集まりの事だがその様態は不定型だ。しかも、時により所属構成員が変化する。もっといえば、その社会の全員が大衆になることもありならない事もあり、なのだ。テーマの設定とそのタイミング次第なのである。

要は、その時上がっているテーマに関して専門的に詳しい少数派に対して、それにあたらない全員の事を指す訳だ。つまり例えばあたしは宇多田ヒカルに関して“大衆”の構成員にはなり得ない。一方で、例えばどこぞの芸能人のスキャンダル記事のスレッドに行けば「そもそも誰なのこの人?」から始まるので大衆になるだろう。「知っている人の方が多数派」となるほどの超有名人のスキャンダルならまた事情は異なるが、それも含めてしまってもよい。

衆愚政治”なんて言葉もある。これは事の本質を突いている。ひとつひとつ特定のテーマに関して専門的な知識を持つ人間の数は限られる。衆愚というのは、故に、誰と誰と誰が衆愚と呼ばれて誰が呼ばれないかはその都度テーマによる。そうやって構成員が入れ替わっていく中で都度衆愚は定義され得る。政治は常に複数のテーマを抱えるものなので、その統合体は全体統計として衆愚政治となるだろう。「失政は政治の本質だ」とは私の好きなヴ王の至言である。頻出。

私は大衆をその様に捉えているので、自分が時として呑気で無知な大衆だったり、或いは専門的な知識を得ていて他の人達の振る舞いが愚かしく見えていたりもする。裏を返せば、私が大衆である時は他の専門的な誰かが私の振る舞いを見て愚かしいと溜息をついているのだろう。斯くも大衆とは相対的なものなのだ。

故に、いつもヒカルが相手をする層について興味をもって接せねばならない。こうやって宇多田ヒカル中毒患者になってその事実すら麻痺して鈍痛になっている状態で最も認識しづらいのは「大衆からみた宇多田ヒカルの姿かたち」だ。これは常に大きな想像力と観察力をもって接せねばならない。「シングルの発売日なんて全部覚えてるもんじゃないの?」とか素で言ってしまうのは異常だと早く気づけ。いやまぁ結構な確率でフラゲ日と間違えて覚えているので偉そうなことは実は言えないのだがそれはいいとして。

そんななのでいつもこの日記では、ヒカルのリスナーに関して探り探りだ。言ってしまえば自分のような極端な人間はヒカルにとってリスナーではない。リスナーとして想定されていない。曲の感想を書いても参考になってないのかもしれない。そう考えるとちょびっと虚しいのかもしんないが、宿命みたいなもんだろうな。同じくリスナー想定外のコアめなファンがここの読者だろうから怯んでいる暇もない。ヒカルの話以外でなら自分は大衆に帰属するだろうからその時の感覚を頼りにやっていくとしますかね。