無意識日記々

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小さな伝播

サザンオールスターズの、十年ぶりになるの!? 新譜「葡萄」の曲を聴いていると、そのアイデアの豊富さ、引き出しの多さに吃驚仰天する。次から次へとそれまでと異なるサウンドが飛び出してきて、いやはやまさに音楽の供宴、バンド名の通り楽想の"オールスター"だなと思わされる。若いもんの中に、この境地に達するまで一流のプロフェッショナルとして活動し続けられるバンドが幾つあるか。多分無い。邦楽史上不世出の、最大最高のロックバンドだろうな。桑田佳祐はやっぱりぶっちぎりの天才だ。


でも。ふと思う。例えばこの「葡萄」と同等のクォリティーのアルバムを宇多田ヒカルが出したら私はどう言うか。「今回ヒカル調子出なかったんだな。次作に期待かな。」と言うだろう。端的に言えば不合格である。ちょっと待てと言うしかない。

やはり感覚が麻痺している。ヒカルに対してハードルを上げ過ぎているのだ。いつも絶賛してばかりじゃないかと言われそうだが、いやいや、なんのその。そんな事は無いのだ。でも、それ位上げないともう表現する語彙がなくなる。モーツァルトビートルズと較べてあそこが物足りないとかここがちょっとと言うしかないのだ。日本人大衆音楽作曲家として、1人だけ別次元に居る。井上陽水の言う通りである。(←しつこい)

なんだか腹が立ってきた。こんなクォリティーを維持し続けているというのに、この国の99%以上の人間はヒカルの新譜や新曲を買おうとしないのである。


いや、でもいちばん腹立たしいのは自分自身に対してかな。これだけの恩恵を浴びていながら、リアクションが全然不十分な気がする。Hikaru自身はそんなの全く気にしないだろうけど。無意識日記の執筆者が「宇多田ヒカルに対するリアクションが不十分」なんだったら誰が十分なんだという気がするが、他者との比較ではなく自分の気分の問題だ。借りを返せてる気がしないので気が重いのだ。

誰しも、何か感謝の印を形に出来たらと思いつつもじゃあどうしたらいいのかってのがさっぱりわからないんだ、と考えて日々を生きているかと思う。ここでもやっぱり「そんなの気にする事ないよ」とヒカルは言うだろう(きっと違う言い回しで)けれど、これも個々の気分の問題なので、やるせない。

ヒカルは他者から何かされて喜ぶタイプではないのだ。いやとびっこプレゼントとか無茶苦茶喜んでたじゃん、とかそういう事ではなくて。あーでもあれだけ喜んでくれるんなら毎週とびっこ送りつけてやりたいけど。

貰って嬉しいものは幾らでもあるけれど、あれが欲しいとかこれがしたいとかが何故かどこか希薄なのだ。特に、若い頃と較べてね。なんだろうねあの虚無と無力感。そしてそれを背景にした圧倒的な集中力。その結晶があの楽曲たちだ。彼らの故郷は虚無なのだろうか。情熱なのだろうか。それとも2つは同じものなのか。

欲とは欠落である。そういう漢字をしている。手元に足元にこれがないから欲しい、埋めたい。ヒカルにはそれがない。既に完全なのかもしれない。いや現実にはそんな風に考えて生活していないだろうけれど事実はそうなのかもしれない。どうしたらいい?

Hikaruが欲しないなら、それはHikaruが完全だからだ。そりゃ100m10秒では走れないだろうし、走れたらいいなとも思うだろう。そういう事ではないのである。キリが無い。ただ、充足しているという感覚があるかどうかだ。

そして、多分名曲を本当に産んでいるのはその充足や満足なのだ。でなくては、ヒカルがあれだけの曲を生み出し続けた説明がつかない。どう転ばしても説明なんてつかないけれど。欠落を埋める為の曲なんて新しくない。充足から世界を広げた時に生まれるものこそ新しい。それは感謝であり祈りであり、恩恵の慈雨である。だから、我々がHikaruに対して申し訳なく思っている何倍も、Hikaruは世界に対して、音楽に対して大きな借りを感じている。恵まれ過ぎている、という我々の感覚は結局、Hikaruの気分の小さな伝播に過ぎないのである。