無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

編集という名の時間のメビウスの輪

タイトルをつける、というのはいつの時代も億劫なものだ。インターネットの旧世代と現世代の大きな違いは、タイトルの有無にもあったりする。

旧世代のツールは、アップロード毎にタイトルをつける必要があった。電子メールしかりBBSしかり。Web日記やBlogもそうかな。mixiFacebookはどっちつかずだが、これがTwitterやLINEの世代になるとデバイスを取り出してすぐ本文である。チャットルームのように入室ボタンを押す必要すらない。タイトルが消えたのだ。

これは本当に見た目の話である。仕組みが電子メールのままでも、タイトルの表示を省略し、返信の応酬を画面に連続で表示させればもうそんなにTwitterやLINEと変わらなくなる。

だが、この、タイトルをつけるという億劫さが機能する場合もある。最初にタイトルをつける人は予め書く前から自分が何を書いて何を発信するか把握している訳だし、後からタイトルをつける人は今何を書いたか総括をする必要がある。要はタイトルをつける為に内容の要約や総括をいつのまにかしている事になる。勿論、タイトルといっても種々の方法論があるけれども、その余計なプロセスが億劫さと敷居の高さを生み、多少書き手を冷静にさせる効用があった。

今は手軽さと一緒に軽率さも生んでいる。機能の人気ツイートに「インターネットに出せるのは玄関に張り出していい文だけ」というものがあったが、エンターキーをタップする前にその"判断の機会"を生むのにタイトルはそれなりの存在だった。


Message from Hikki にもツイート並みの短い文章は幾つもあったが、そのどれにもタイトルがついていた。タイトルをつけなくていい分、ツイートは気軽に出来るし、"判断の機会"なんぞ与えられなくてもHikaruは常に自分自身の発言を監視している。そんな重苦しい…と言いたくなるが、ミリオンフォロワーをもつ発信者なら無意識日記にやってしまっても仕方がなかろう。

逆に考える事も出来る。タイトルさえつけれてしまえばもう自分は判断の機会を経たのだからエンターキーを押してもいいんだ、と自身を許すタイミングを与える契機とすればいい。するとそれ以上考えなくていい訳だから、あれだけの有名人になるんだったら、ツイートよりメッセージの方が敷居が低くなってくれる可能性もある。Hikaru本人はどう捉えているだろうか。


さて、無意識日記は大体が本文を書き終わってからタイトルをつけるのだが、これを書いている時点ではまだタイトルがさっぱり決まっていない。どんなものがつくのか今の私は楽しみで。皆さんは最初にその一行をもう読んでいる訳で、つくづく編集という名の時間のメビウスの輪は面白いなと痛感する次第です。