無意識日記々

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待てば海路の日和あり

たまには「主張」のある文章でも書いてみようかという気分になった。随分疲れているせいだろう。私からしたら、主義主張がある文章というのは面白い文章を書けない自信の無さから強がっている風に見えてしまうのでそれを自分から書こうというのはよっぽど自信が足りないのだろう。まぁそんな日もある。

恋愛至上主義という考え方自体には、私は心底好感が持てている。「いくつになっても恋していたい」。瑞々しく、素敵な事だと思う。しかし、社会としてそれがメインカルチャーになるのは許せない。あクマでサブ、或いはカウンター的な考え・スタンスであるべきだ。

これと同じ事はスポーツにも言える。特に野球だ。高校野球の魅力はよくよく知っているつもりだ。地元愛、若さと爽やかさ、ひと夏に賭ける思いの強さ。一瞬の煌めきを捉え続けてもう何年だ。そりゃあ人気も出るだろう。しかし、それが時にプロ野球より人気があるように語られるのは我慢ならない。わかるよ、腹の出たオッサンがふてくされて負けてもまた明日って言いながら貧弱な応援団からの野次を背に球場を後にするやさぐれ感に付き合えとは言わんよ。しかし、プレーの質は圧倒的にプロの方が上だ。そりゃあ高校野球よりプロ野球の方が野球という競技としては"メイン"であるべきだ。

この国特有の事かどうかは知らないが、どうにも"若さ"に重きを置きすぎているような気がする。時に未熟を完熟より評価してしまう事すらある。特に目に余るのが女性に対する"扱い"だ。若けりゃいいってもんじゃないだろ。言われる方も言われる方で「今日5歳若く見られた」とはしゃいでいる。素直な感情なのだろうが、それは「歳の割に未熟ですね」と言われているに等しい。

要するに女性が女性としてばかり見られていてただの人として、ジェンダーから切り離されてみられる機会が少なすぎるのだ。女性の方もその環境に適応して常に若くみられようとする。そんな社会が出来ているから「生物学的にはおばあちゃんは要らない」とか言う老人が出てくる。うちのおばあちゃんに謝れ。もう2人とも生きていないけど。

恋愛至上主義も、未熟さを上位に据えているようにみえる時がある。私からすれば、いや幼い頃の私からみても、恋愛の期間というのはお試し期間、パートナーを決めるまでの猶予、モラトリアムみたいなもので、本来ならその過程を楽しむのが目的ではなく、結婚しようがしまいが、同性同士だろうが異性同士だろうが、こどもを生もうが生ままいが育てようが育てまいが、兎に角誰かと2人になって、そこから協力しあってどんな人生を築いていくかが主眼であるべきだ。恋愛は、ある意味仕事でいえばアルバイトとかインターン、勉学でいえば試験期間である。どの職場や学校に入るかを決める大変重要な、人生の一大事だが、それより本来は、その選んだ道で何を成し遂げるかがいちばん大事でしょ。

つまり、この国は(なのかどうかはやっぱり知らないけど)、時々若いのが偉すぎるのだ。試験勉強ばかり頑張って学校に入ったら遊び始めるとか、そういうメンタリティと恋愛至上主義高校野球偏重主義と女性に対する若さへの過度な期待とか、いやもう全部大体同じな気がする。あっさりロリコンと表現しちゃう人も居るけど違うと思う。またそれとは別の何かだ。


で、だ。ここが本題。32歳を超えたヒカルが、これからどんなラブソングを書くのだろう。割り切って書けば、恋の歌を歌うか愛の歌を歌うかどっちなんだという事だ。まぁ両方だろうけど、そこでの価値観のパースペクティブはどうなるのか。

「恋」とは「請い・乞い」であり、相手を欲しがる事、相手から欲しがる事だ。「愛」とは「会い・合い」であり、時間的にか空間的にか価値観的にか"一緒に居ること"や"一緒であること"だ。どちらが成熟した関係か、どちらが大人なのかは一目瞭然だろう。相手に恋い焦がれて、相手を乞うているようではまだまだこどもだ。極端な言い方をすれば、それはただ相手から奪う事でしかない。相手との間に愛があれば、会って合っていれば、そこから何かを生み出す原動力になる。愛の力こそが主眼であるべきで、恋はそこに至る手段でしかない。しかし、冒頭で述べたように、私はその手段でしかないものを愛する事は素敵だと思う。要は、それは若い頃の一瞬の煌めきであって、とてつもなく大切なものだが、本当の勝負はそこからだという事を忘れるな、って話なのですよ、えぇ。



嗚呼、ヒカルがサッカーのツイートをした時ってこんな気分だったのかもしれない。つまんないこと書いちゃったな。でも、そういう日もあるんだ。また明日から切り換えて頑張るとしよう。1日という概念は、本当に素晴らしい。それが多分、海路に歌われている事なのだろうな。