無意識日記々

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他者との対話・自己との対話

エンターテインメントとアートの違いは、対話の相手である。他者との対話の中から生まれてくるものがエンターテインメント、自己との対話で生まれてくるものがアートだ。

20世紀に隆盛を極めたジャズとロックの何がクラシックやそれに連なる(意図的な断絶もまた系譜である)現代音楽と違ったかというと、作曲者が複数になりえるようになった事だ。

クラシックの巨匠たちは大抵強烈な自己を持っていて"共作"という事をしない。一方ロックやジャズはそれぞれの楽器演奏者がアイデアを持ち寄りジャム・セッションから音楽を生み出していく。それを楽曲として結実させていくのがロック、そのまま対話を発展させるのがジャズだ。ロックは名曲を生み、ジャズは名演を生んできたのだ。

この、ロックとジャズの手法はアートとエンターテインメントの丁度中間である。自己の価値観だけで曲を作り上げるのでもなければ、完全な他者との対話によって(例えば大衆のニーズに従って)作られたものでもない。同業者同士が共通項と異なる面を突きつけ合わせ合いながら、他者の目と自己の目をミックスさせていったのである。従って、ロックにせよジャズにせよ、アートとしての側面もあればエンターテインメントとしての側面もあった。20世紀に両ジャンルとも世界規模での商業的成功を収めたのは、その両義性が主因だったといっていいだろう。アイドルだったザ・ビートルズは、ポップなだけでは終わらず、ロックにアートとしての可能性を見いだしていった。ザ・ビートルズの次の世代が"アート・ロック"と呼ばれたのは偶然ではないのである。


まぁそんな話はいい。今のヒカルだ。本来なら、Pop Musicianとして、大衆の反応を見ながら曲を作っていかなくてはPopsとして、エンターテインメントとして曲は機能しない。然るに、今のヒカルはまるで大衆やファンと対話をしていない。曲作ってないなら当たり前なんだけど、そうなってくるとどうやって"他者の目線"を音楽に反映させるのだろうか。

アートとしての価値を追求するならいい。自己との対話の中で音楽を、言葉を紡ぎ上げていけばよい。しかし、ヒカルは恐らく、しっかりエンターテインメントな音楽を作りたい筈である。もっといえば、欲張って、アートとしてもエンターテインメントとしても通用する曲を生み出せれば最高だ。

じゃあ、今どうしてるのだろう? どうやって、自らの作る音楽に「他者の目線」を取り入れているのだろうか。次回へ続く。