無意識日記々

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低音とHikaru

日本人は低音に関心が薄い―少し似た切り口で別の面から論じた事もあった。日本の住宅事情では音楽を大音量で聴く事が出来ず、それが、爆音での再生を前提とするロック・ミュージックとはソリが合わなかった原因の一つなのではないか、という仮説だ。

そして、確かに音量が小さい時に最も割を食うのは低音であろう。

従って、そもそも日本人は会話時に低音を使わない事と、再生環境が大音量や重低音にそぐわない事の両方が相俟って、日本人の低音無関心が醸成されてきたのではないか、という合わせ技の推論が出来上がる。

実際、電気楽器やPAの発達によって、20世紀の音楽がそれまでと比較してもかなり低音が増量されている。ロックは言うに及ばず、ジャズもダンス&ディスコ・ミュージックもヒップホップも極端なまでの低音を押し出している。

勿論、下地があった。西洋音楽には低音専用の楽器がある。弦楽器でいえばコントラバスやチェロ、アップライトベースといったもの。鍵盤楽器もえらい低音まで出る。金管楽器木管楽器も然り。それが電気の導入によって一気に花開いたといいますか。

日本古来の楽器で、低音専用の楽器はどれ位あるのだろうか。私が知らないだけで、或いは気がついていないだけであるかもしれないが俄かには思いつけない。あったとしても印象が薄いのだろう。


さて前フリはここまで。ここからが本題だ。Hikaruの話である。Hikaruの曲は、特にHikaruの編曲は、何度も言及してきたようにベースの存在感が異様に薄い。ライブでは必ずダブル・ドラム、或いはドラムスとパーカッションの両輪を取り揃えて低音をカバーしてきた。果たして、このHikaruの特性も日本人固有の低音への無関心からくるものなのだろうか?

これは難しい問題だ。たとえそうだとしても、Hikaruはそれに対して自覚的ではないだろう。それに、英語で歌う時も、日本語で歌う時程ではないが、低音、特にベースは薄く、その分を打楽器で補っている。

勿論、ベースが活躍するケースもある。ブリッブリのベースラインが心地良い甘いワナはHikaru編曲ではないから例外としても、日曜の朝の『だゆ〜ん だゆ〜ん だ』&『んだゆ〜 んだゆ〜 ん』はこだわりの低音アレンジだし、EclipseとPassionは共通のベースラインをもって組曲を成している。でもやはり、少数派である事は否めない。


全く別の論点から考える事も出来る。Hikaruのバック・コーラスだ。Hikaruは本人が『おっさんみたいな声』とまで言う低い声を出してバックコーラスを構成する事がある。その音域の深さと広さゆえ、低音を分厚くすると中央付近のミックスに支障が出たりするのかもしれない。或いは、そもそもHikaruの歌声自体が低音部の倍音を豊かに含んでいて、それを響かせる為には低音を除去した方がいいのかもしれない。これらは、音響学的な観点である。


こういった、日本人と日本語という人文学或いは民族学的といってもいいだろうか、歴史的な経緯からのアプローチと、純粋に物理学的な音響特性からのアプローチの両方が必要になるなんて、"歌の解析"とは何と豊かな事かと嘆息する。今の私はどちらからのアプローチが正解に近いかわからないが、面白いもんだ、と自分で書いていて思う。


少し寄り道をしたかな。Hikaruの日本語の歌と低音については、この後もう少し掘り下げていこうか。話はややこしいが、歌とは至極シンプルなものだ。肩肘張らずに参りましょうぞ。