無意識日記々

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セクシーさとは心身リソースの集中力だ。

最近、「コイツ(ら)はセクシーだなぁ」と感嘆した人(たち)が2組居まして。片方がLED ZEPPELIN、もう1人が伊藤美誠で。

ツェッペリンの方は、知っている人にとっては言うまでもないだろう。特に全盛期の(72年位までの)ロバート・プラントのライブ・パフォーマンスはセクシーの一言に尽きる。男性が女性的だったり、女性が男性的だったりする事はあるし、中性的だったり非性的だったりというケースも少なくはないが、単独のパフォーマンスで"両性的"といえる魅力を放てるのは彼くらいではないか。男性的な雄々しさ、力強さ、品格。女性的なしなやかさや妖しさ、繊細さの両方を常に併せもっている。ジャニス・ジョプリンのようでもあるし、イアン・ギランのようでもある。テクニックという点ではポール・ロジャースに軍配が上がるがパワフルかつセクシーとなると若かりし頃のロバートプラントの右に出る者は居ない。

ツェッペリンの恐ろしいのは、そのプラントの両性的な、力強く且つ妖艶で繊細なタッチを、その集中力を維持したまま楽器陣の3人が引き継げる事である。彼らはブラック・サバスのようにヘヴィにまなれれば、ジョニ・ミッチェルのようにフォーキーにもなれる。信じられない振り幅の広さを、時には黒人やアジア人にもアイデンティティのレベルで共鳴できるサウンドとして出して来れる。今更ながらやはり20世紀最強のライブ・バンドである。本当今更だが。

そのセクシーさの源泉は、集中力の高さと、その力の入れ具合の絶妙さにある。プラントの"呼吸"と同レベルでギター・ベース・ドラムという最小編成の3人が即興演奏に突入できる。時にはプラント自らスキャットで参戦しながらそのスリルと集中力を共有する。その、集中力を"今出している音"の一点において表現できる技術とセンスがレッド・ツェッペリンを史上最も特別な存在に押し上げている。力が余計な所に分散せず、常に針のような鋭さで曲線を描いているのだ。

同じような集中力を、伊藤美誠にも感じるのだ。14歳の女性に対して大変失礼だが、彼女のルックスは典型的なおかめ顔で如何にも和風、田舎から出てきたばかりですみたいな平和なルックスを普段からしている。しかしプレイに入るとそれが一変する。全身から力みという力みがとれ、常に打球のインパクトの瞬間に力を集中できる体勢が出来上がる。その為、打球していない時の彼女の振る舞い方はまるでやる気がないのかというくらいに気だるく力が抜けている。しかし、それは常に意識を集中させる前段階の状態であり、インプレイになった後も、常に最短経路と最大効率でインパクトの瞬間に力を集中させる事が出来る。その分、他に力が分散していない。身体的にも、精神的にも余計な力みがなく、打球の瞬間を中心として急峻なデルタ関数(そこだけにパワーが集中していて他は殆どゼロ)を描く。その為、その立ち居振る舞いは独特のセクシーさを醸し出している。女性として、というより、プレイを中心とした試合中の立ち居振る舞いの一連が、私にはセクシーに映るのだ
った。

そういえば福原愛がいちばん強いのも、力みがとれて気だるそうにしている時だな。今回みたいに気負っていると、セクシーじゃあない。


ヒカルの過去のライブパフォーマンスを並べて見ていて、いちばんセクシーだと感じたのはやはりWILD LIFEだ。UTADA UNITED 2006にセクシーさを余り感じないのは、総ての場所に全力をぶち込もうとしているからだ。心身ともに力みまくっていて、集中力が分散してしまっている。というのも、当時の彼女はライブパフォーマンスの中でどこに心身の力を集中すればいいのかわかっていなかったからだ。その余裕のなさがガチガチだったりギリギリだったりの雰囲気を生んで、セクシーじゃない。

WILD LIFEは、In The Flesh 2010を経て、2時間のうちでのベース配分を完全に理解したのが大きい。ベースというと誤解を生むかな。2時間歌い続けても大丈夫な力の入れ具合、つまり、余計な所に力を入れずにいける方法論を学び、集中すべきポイントに心身のリソースを集められるようになった為、適度に力が抜け、針のような鋭さを保ったまましなやかな曲線を描けるようになったのである。年齢的な面も勿論なくはないが、やはりそのしなやかな力強さに私は「セクシーだなぁ」と感嘆せざるを得ないのだ。

次の段階のヒカルは、たぶん気だるいまでに力の抜けた状態でステージに上がり、最高の集中力で歌を聞かせてくれる存在になっているだろう。多分ナマでそれを見てしまうと、私なんかはそのセクシーさに卒倒しかねない。集中力さえ高ければ、セクシーさに年齢や性別は関係ないのだわ。