無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

プレーン牛乳とコーヒー牛乳とフルーツ牛乳

この歳になっても、音楽を"プレーンでフラットな気持ちで"聴く事は難しい。いや、歳をとったから、と言った方がいいか。どんどん"雑音"が入ってくる。他人のレビューや流言やスキャンダルや何やと。

人は物語を求める。歌に背景を求める。私は折に触れて「物語をくれぇ」とここで叫んでいるが、それは不安の裏返しともいえるのだ。ただ目の前の音に耳を傾けるだけでいいのに。

幼い頃は何の偏見もなく聴けていたなぁ、と述懐する事も可能だが、そうだったとも言えるしそうでなかったとも言える。何も知識も経験も無い状態でたとえそうであれたとしてもそこまで意味はない。時間を食い、知識と体験をひとつでも多く貪った上でなおプレーンでフラットで居られるから価値がある。価値とは本来そういうものだ。白いキャンバスは無限の可能性を秘めていて美しいが、どの出来上がった絵にも及ばない。しかし、それでもこれなら白紙の方がよかったと後悔するのが人間だ。

物語から解き放たれて"今"にどれだけ集中できるか。人生が長くなればなるほど"今"の幅は狭くなる。たとえどれも同じ一瞬でも、時間を紡ぐ以上幅はできる。次第に小さくなっていく幅にプローブを合わせ続けるのは、難しい。


3ヶ月ぶりのツイートがあった。私は牛乳を飲む習慣が無くなって久しい。嫌いでもないしお腹を下す訳でもないが、何故か消化吸収している実感がなかったのでいつのまにか飲まなくなった。勘違いかもしれないけれど、飲まなくなった事でのマイナスは無い。チーズは相変わらず好きなんだけれど。

「牛乳と銭湯」で検索すると、どうやら昭和30年代、冷蔵庫がまだまだ希少だった時代に数少ない冷蔵庫を設置している公共の場所が銭湯だった為牛乳の売り込みがあった、という事らしい。昨日のリプライトップは「腰に手を当てて飲む」だったが、その誇らしいポーズは高度経済成長の中で生活にほんの少しばかり贅沢が入り込んできた事への感慨から定着したのかな、とふと思った。まるで"元気だった頃の日本の象徴"のようだ…


…という風に、すぐに物語を付け加えるのが悪い癖な訳だが、読んだ方は(書いた方も)こういう話に触れる事で妙に安心する。物事をただそのまま受け入れるより、既知のものと結び付ける方がずっとラクに入ってくるからだ。それは育てられた消化酵素や調理法のようなもので、噛み砕く事で消化吸収を促せる。物語は優しさでもあるのだ。だから、時には離れてみる事も必要だし、無い状態でもいいようにした方がいい。それだけだ。


私は牛乳はあまり吸収できないが、フルーツ牛乳やコーヒー牛乳はどうだったのだろう。フルーツ牛乳は、それこそ銭湯など僅かな場所でしか飲めなかったから憧れだった。多分、もうその時点で私は"本当の味"を見失っていたのだが、それはそれで楽しかった気がする。歳をとって、物語を剥ぎ取っていく術を漸く身につけようとしている今、もう一度フルーツ牛乳を飲んでガッカリしてみたい。それでも残った美味しさこそが、いつまでも一緒に居てくれるのだから。