無意識日記々

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先週、レディ・ガガの記事を読んだ。彼女はこう言ったという。「私はよく“次のマドンナ”と言われるけど、違うの。私は“次のアイアン・メイデン”なのよ。」

妙齢の女子が、自らの目標を同じ女性ソロ・シンガーではなくむさくるしいおっさん6人組、いや、最早おじいちゃん六人衆かな、そんなものにおくだなんて奇異に感じる所だが、いやはや、素晴らしい。確かに、現役であんな高い所まで登った大衆音楽は他に無いのだから、そのモチベーションの高さを表現するには彼らの名前を出すしか無いかもしれない。ならば「私は“次のエディ”なのよ」とでも言った方がよかったかも。いや通じないか。(エディはアイアン・メイデンのマスコット・キャラ)

そして彼女は「"FINAL FRONTIER"ツアーを体験して感銘を受けた」とも述べていた。いいセンスをしている。既に生ける伝説となったバンドの、“現役としての凄み”を直に感じたのだ。「昔のアイアン・メイデンはよかったよ。」としか言えない日本の(ry

モチベーションの高さは重要である。同時に、その"高さ"に近付いている事を日々感じられる事も重要だ。それをどう賄うかはヒカルにとってクリティカルである。5年前に「私に"それは違うよ"と言ってくれる人が居ない」と嘆いていたけれど、今、そういう人は見つかったのだろうか。P.J.ハーベイには会えたのだろうか。レディ・ガガのように、エキセントリックで、誰にも似ていない孤高の存在にも、「私もあんな風になりたい」といって目指せる存在が在る。ヒカルにも在るのか。

要らない、という考え方もある。しかし、だとしたら、日々の中で自らの成長をどうやって推し量るのか、ちょっと見当もつかない。間違った道を行った時に、レディ・ガガなら「あら、アイアン・メイデンから遠ざかっちゃったわ」と軌道修正が出来るかもしれないが、ヒカルは自分が間違った道を進んでいるかもしれない事に、いつどうやって気付けるのか。それをわかる"理想"を、変わらず心の中に持ち続けている事は可能なのだろうか。

プロフェッショナルに割り切れるなら、或いは。常に、ただひたすら次の曲を完成させる事に集中する。その繰り返しで日々が過ぎていくとして。それでいいなら、いいのか。そして気がついたら高い所まで来ていた、と。本当にそうなるの? わからない。

結果的に沢山曲を書いたら財産と呼べるものになっているのだろうか。そこで自分に嘘をつかない自信はあるのか。

楽家には、過去の財産を最大限活かせる場がある。それがライブだ、と昔書いた。今まで書いた曲を総動員してひとつの演奏会を作り上げる。それは楽曲と人脈と聴衆が総て財産として眼前に生きていなければ不可能な事だ。寧ろそれ以外に財産なんてあるのか。それを"やりがい"にし続けられればかなりの所まで行けると思うが、ひとつ懸念がある。聴衆だ。

ヒカルは聴衆に対して甘過ぎる所がある。「聴きたいなら歌ってあげる」と。しかし、それを続けていくとお互いの首を絞めるかもしれない。「それでもいい。先の事より、今夜来たお客さんを精一杯楽しませたいの。」とヒカルなら言うかもしれない。そう言われたら黙るしかないが、ここに目標の有無が効いてくるのではないか、とも思える。レディガガと宇多田ヒカル。両者の生き方の違いがそれぞれに今後何を生み出していくのか、少しの不安と大いなる期待と共に、楽しみである。