無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Lens doesn't see, you see.

そういえばヒカルはダヌパの成長記録を映像として残しているのだろうか。本当に手軽に動画が撮影出来る時代になったもので、どれだけ親バカなのかを知りたいところ。初めて歩いた場面を撮影したりしてたら感動モノだろうな。

一方我々は28歳から32歳のヒカルの映った動画を殆ど見る事なく過ごしてきた。こんな時代になったのに5年もの欠落があるのだ。昨今なかなかないぞ。流石に自分の動く姿を撮影したがるタイプではないだろうから、きっとプライベートでもヒカルのこの年齢での動画は希少なんではなかろうか。これは人類にとって大きな損失である。


なんて言っておきながら桁を外すようだが、私は自分を撮影した動画が残るなんてなんだか気持ち悪い。写真ですら自撮りなんてしないのにましてや動く姿だなんてな。見たくもない。

ヒカルもそれに近い事はあるのかなぁ、と書きかけて、いつもアルバムジャケットが顔のどアップである事を思い出す。腹括ったらやる時ゃやる。そういう事なのだろうか。

自分の喋りが残るのも嫌だなぁ。多分すぐアクセントやイントネーションを"指導"したくなる。恥ずかしくて聴いてらんない。

そう考えると最近の歴史上の偉人は胆力があるなと。最初から目立ちたがり屋なら何の問題もないのだが、なかなかどうして、そうもいくまい。

ヒカルはこの5年間、「視線に晒されない」自由を満喫出来ただろうか。ならいいんだが。またいろんな目線に晒されるが、結局いちばんキツいのは自分自身の目に晒される事だろう。そういう意味ではこの5年、「己の視線からも解放された」時間だったかもしれない。

自分自身と向き合うと、同時に社会性も立ち上がる。奇妙なような、当たり前のような。この5年のヒカルの活動がどんなものだったか知る由もないが、歌う以上に視線に晒されるような事はしていないだろう。ならば、いよいよここからは「自分自身と向き合う」時間帯に突入する。また、ジャケットはポートレイトだろうか。

ヒカルはジャケットを見る時、鏡を見るような感覚だろうか。あなたが深淵を覗き込む時深淵もまた貴方を見つめ返している、とは誰の言葉だったか。Hotel Lobbyで見つめあった自己の肖像、いやそれは虚像であったか。鏡のように映し出す力。

もうヒカルは日本中に、いや世界中に自分の顔をバラ撒いてしまった。それでも結局、自らの視線に優るものはない。唯一優ったかもしれない母の眼差しはもうない。もう自らが母であるのだし。ひたすら子を見つめてあげればよい。最初の1,2年は、特にね。


しかしやっぱり、この5年の間に誰かヒカルの動画撮ってなかったかと、期待を抱いてしまう。歴史的資料。今すぐでなくていいから、何十年後かに公開してくれませんかね。