無意識日記々

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あれから10年。覚えていますか。

映画「春の雪」公開から10年と言われてもピンと来ないな。映画自体の出来も悪くはなかったが、やはり主題歌の方に耳がいく。

"Be My Last"は、母親を『かあさん』と呼ぶ事で歌の冒頭からいきなり語り手が男性視点である事を宣言する。そして、ヒカル曰く「最初の3行で言いたい事は言えた」その冒頭部がそのまま楽曲への世界観を決定づける。ヒカルのこういう曲は珍しい。他には、ややアカペラ気味に始まる"Can You Keep A Secret?"や"Flavor Of Life"などがあるが、これらはあクマで「サビから始まる曲」であってBe My Lastとはやや様子が異なる。こちらはただのAメロの歌い出しだ。そこで言いたい事を言えてしまった以上、サビで言う事がなくなる。したがって、英語のリフレインになった。

そのサビで挿入される日本語は『どうか君が』だ。意味上で繋がっていて「どうか君が僕の最後の人でありますように」という願いの曲になっている訳だが、それらも含めてこの曲の歌詞に込められた思いの数々は総て冒頭の『育てたものまで自分で壊さなきゃならない日がくる』によって文字通り壊される。切ない歌。

実際、この歌は宇多田ヒカルのキャリアをごっそり壊した。CDシングルの出荷枚数と売上枚数の落差は有名な話(?)だ。一方でiTunes Storeでは年間トップクラスの売上を記録する。過去のキャリアを壊して新しい方法論へと移行したのだ。その積極果敢が後のFlavor Of Lifeの大成功を呼んだと考えると、ヒカル自らが『かあさんどうして』の問いに自ら実践で答を返した事になる。それが生きるという事だから、と。

『何も繋げない手』という一節は、世界に対してはたらきかけられない辛さを伝える。恐らく、幼少の頃のヒカルの無力感が根底にはあるのだろう。ヒカルの大好きなフレディー・マーキュリーがかつて在籍したバンドQUEENが、愛する日本に日本語で捧げた楽曲のタイトルが"TE O TORIATTE"("手を取り合って")であった事をなぜか思い出す。どこか、とても対照的だ。

映画も大して話題にならなかったし、CDシングルの売上も散々だった(割には1位取ってるんだけどね)ので、もしかしたら黒歴史扱いされているかもしれないBe My Lastだが、勿論ヒカルの歴史上欠くべからざるべき楽曲だ。10年経った今聴いてみたら、何かまた新しい発見があるかもしれないよ。