無意識日記々

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うたにした

懐かしいな。「DEEP RIVER」を誕生日に買って、初めてアルバム全編通して聴いたのは半年経ってからだった。丁度年末に差し掛かる今頃だったんだろうかな。もうよく覚えていないけれど。

何というか、自分にとってというより、宇多田光にとってこのアルバムは、その人生にとってそのアルバムは、とても重いものであるような気がしたのだ。聴いてみたら、気のせいじゃあなかったけれど。

なので、自分もそれなりにその重さを体験してみたくて、一曲々々をゆっくり聴いていった。通して聴いたのはある程度その架空の重さを自分で消化してからである。

今じゃそんな聴き方はできない。「もう聴いた?」って訊かれるから、というのもあるし、自分がきっとすぐ聴きたがるというのもある。どんな理由であれきっともう無理なんだ。あんな事は。

出来れば、光の作る歌を徹底的にOne Of Themにまで貶めたい。そこまでしても尚楽しませてほしい。年を取って贅沢になったのと、多分、たとえ今から仮に100年生きられるとしても「もう時間がない」という感覚から逃れられないからだと思う。買ってきて即開封しぃのプレイボタンを押しぃの一気に最後まで聴きぃの。まぁ贅沢。

味わう事を強いられている訳でもあるまいに。

光にとっても、今後人生の中で「DEEP RIVER」ほど重いアルバムは作れないかもしれない。重さは若さの特権なのか。

でも、それでいいと思う。音楽を突き詰めれば重さは消えていく。ヘヴィ・ミュージックを25年間摂取し続けてきた人間が言うのだからたぶん、間違いがない。鼻歌だけが残る。ぼくはくまには最初から叶わない。

残る事だけが価値ではない。現れて消えていくのもまた価値だ。しかし、人はだからこそ何かを残そうとする。一旦重くして、そこから軽くしていったら残るのだ。歌だけが。

歌片の、と当て字をしたくなる。凝縮して爆発させて何もかもが消えてなくなってしまった後に散らばった歌のかけらたちを拾い集めて歌になる。最早瞳はそこに輝くしかない。

こどもができたので。その重さをHikaruは外から眺められるかもしれない。もう思い出すしか出来ない重さを、重い思いを。今はもう自分には生まれない、生まれるとしたらちょっと大変な事になる。人が何十億居ると思っているのだ。

それが本当のノスタルジーだ。今生まれてはいないものによっても歌は生まれる。時を超える。残れるのだ。


時々そういう事も考えないようでは、アーティストでは居られない。しかし、歳をとればとるほど、想起でない今生まれた感情を捉えるのは難しい。そうやってぐりんぐりんしながら、生きている。

DEEP RIVER」が「DEEP RIVER」として残っている事、残してある事がアーティストの、ミュージシャンの強みだ。感情を自ら想起するのではなく、歌に想起させるのだ。今やってきたものの方角がわかる。音にした成果だ。

それは逃げ道を塞ぐ事でもあれば残手を削る手でもある。違う事を。まずはそこからだがそれは本懐ではない。

かつてそうだった、と教えて貰える。それだけかもしれないが、記憶は狼狽える。歌は揺るがない。心は何れにせよ震える。であるならば、歌え、と。瞳の輝きは失われない。私はもう見てきたんだから、信じていいんだよ、きっと。