無意識日記々

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作り込まれ切ったら自然体

関西のテレビを観て育ったものだから、かなり幼き頃より漫才を沢山観ていたけれど、当時はあれが“一言一句台本に書かれているものをそのまま喋っているもの”だとは夢にも思っていなかった。かといって、それが本当にただの出たとこ任せのお喋りだとも思っていなかった。要するにどうやって作っているかに思いを馳せる事もなく、あの人たちが飛び出してきたら面白い事を言う、位の認識しか無かった。

実際は、ただ台本通りに喋るだけではなく、掛け合いとしてタイミングやリズムを合わせ、時には流れに合わせてアドリブを入れながら彼らは笑いをとっている。特にツッコミの側は「演技力」が要求される。というのも、ボケの言う事を受けて喋らなければいけないからだ。ボケは自ら間合いを作って自分のペースで喋ればいいがツッコミの方はそうはいかない。何よりも、ボケの側の発言を「まるでたった今初めて聴いたかのように」驚いてリアクションしなければならない。本当は飽きる程台本を読み込んでしこたま稽古して頭の中に叩き込んであるフレーズなのに。これが本当に難しい。

そのツッコミとしての演技力が最も高いのはアンタッチャブルなんだけど最近漫才してくれないね。それはさておき。兎に角彼らは練習に練習を重ねて目指しているのは「まるで今初めて繰り広げられているかのような自然な会話」なのだ。それが観ている方にとってはいちばん面白い。それを演技でなく素でやってしまったのがかつての「ガキの使いやあらへんで」のダウンタウンで、そりゃああれが出来るならわざわざ漫才の台本を書く必要なんてなかった。いっぺん観てみたいけどね、M1グランプリに彼らが特別出演してフリートークしたら何点取れるか。

まぁ兎に角、自然な会話を舞台上で見せる為に漫才師の皆さんはしこたま練習する。ミュージシャンの中には、同じように、MCをまるで台本があるかのように喋る人も居る。尺を測り流れを作り客の反応をみつつ修正を加えながら環境に次の曲への心の準備をさせる。誰とはいわないがその職人芸たるや凄まじいものがある。

一方で、本当にただ出て行ってお喋りするミュージシャンも多い。それが悪いとは言わないが、ある意味勿体無いかなと思う時がある。ここはダレずに次の曲へすぐさま行った方がいいのにとかあーここで曲名言っちゃったよとか逆に今のは先に曲名叫んだ方が盛り上がるだろとかいちいち気にかかってしまう。漫才のような緻密な(時間的密度の濃い)会話芸を観て育った故の弊害かなこの口うるささは。

ヒカルも、そういう意識でMCを練り込んだら出来ると思う。ただそういう意識をMCに持っていないだけで。回数は少なくても、観客の方もいつのまにか慣れてしまって「自然体のヒカルちゃんのお喋りが聞けて嬉しい」とか言っちゃう。いやそれについては異論は無いどころかもう15分くらいフリートークパートを作ってくれちゃってもよいのよ?とまで思うよ俺は。そりゃまぁヒカルのラジオ大好きだからそういう感じでやってくれたら。お便りなんか紹介しちゃったりなんかしてその場に居合わせたら読まれた人は悲鳴もんだ。

そこらへんのバランスは、いつどこでどう見極めたらよいのか。ヒカルには興味無い、ひたすら歌を聞かせてくれという人にはあのグダグダなMCは害悪でしかない。かといって…という風に客の反応を気にしていてもキリがないので、まずはヒカル自身が「理想的コンサートにおけるMCと歌のバランス」を提示する必要があるかもしれない。こんなコンサートが観たい!という理想を具現化する情熱、それを見せてくれるのが一番のエンターテインメントなのではないかな。