無意識日記々

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全部"歌詞"って書けばよかった…

さて詞の話なのだが。

作詞家宇多田ヒカルのファンは多い筈だ。ただ、その大きな理由は「共感」であった。そして、詞への共感を価値と感じるのは常により若い世代だ。年寄りは何を言われても今更だったりするから。もっと言えば大体現実に追われていて、人生を考え直す暇など無いから。若ければ逡巡と苦悩と葛藤に心を費やし身を窶す事も出来る。歌詞への共感はその世代に大きな意味を持つ。

これから初めて、30代のヒカルが書いた歌詞を我々は耳にする。その昔ヒカルは「私は今10代だから同世代から共感を得られる歌詞が書ける」という旨の発言をした事がある。おっさんの書く歌詞より説得力がある、と。今はもう10代ではない。

年齢や世代以外のところで共感を得ればよいというのは正論だ。とらわれない、地球愛に満ちた歌詞でも歌うがいい。しかし普遍的な事柄を歌えば歌う程共感は薄れていく。普通の人の心は普遍を求めたりしないからな。大体、自分だけの特別が欲しい。

ここのややこしさを潜り抜けた作詞家が価値を得る。誰しも、独りになりたくはない。自分と同じ感覚を共有できる他者が欲しい一方で、自分が取り柄の何もない、自分の名すら意味を持たない者にもなりたくはない。その間の葛藤の中に仮初めの答を夢見つつ人は生きる。そこの機微を掬い上げた歌詞に輝きは宿る。なるほど、こういう事を考えるヤツは感覚が青いさ。

「私だけの特別」を何万人という人々に与えたのがヒカルの歌詞だった。それは、彼女たちがヒカルと同世代だったからなのか、彼女たちもヒカルも若く青かったからなのか。それがこれからわかる。同世代のファンは特権である。どちらなのか、どちらでもないのか、どちらでもあったのか。言葉は裏切る。時は過(よ)ぎる。寸での所で人は言葉を掬い上げるのだ。救いの言葉を求めて。

人は生きる。人を生む。人は育つ。今のヒカルのリアリティが10代の頃のヒカルのリアリティと同じではありえない。誰をどう巻き込むか、具に眺めていなければならない。

私? ヒカルの書く歌詞は美しい。それで十分だ。というか、詩としての機能を期待している。

20世紀は、音楽のお陰で伝統的な“詩人”という立場が大きく変容した世紀だった。それまでは書籍による伝承が主だったろうに、放送と歌によって言葉が世界中に広がったのだ。20世紀には沢山の詩人がノーベル賞を獲得したが、20世紀の"詩人"と呼べる人で最も「有名」な人物は誰あろうジョン・レノンボブ・ディランであろう。

確かに詞と詩は異なる。だが詞に詩の機能がある事もまた事実で、レノンの書く歌詞もディランの呟く言葉もいずれも詩として評価されているようにも思う。

「有名である」事にどれほどの意味があるかはわからない。しかし、それだけ多くの人々に言葉を伝えれる技術ができたのは僥倖で、かなりの詩人としての才能が作詞家に流れた感は否定しづらい。

即ち、ヒカルには、作詞を通して「現代の詩人」としての地位を確立できるように、何だったらその詞でノーベル文学賞をとれるまでに作品としてのクォリティーを上げてほしい。あれ、作詞家でノーベル文学賞とった人居たかな? ヒカルが初代になれれば面白い。


さてとっちらかったが、これが本音である。世代毎の共感の担い手、21世紀の詩人、どう表現しても過不足しかない。実際の詞を耳にすれば種々の蟠りは溶解するだろう。その快感を枕にして眠れば疲れもとれそうなのだが、シンプルに言ってしまえばヒカルは今誰に聴かせたくて歌詞を書いているかだ。親友に対して書くと腹を括ればMaking Loveのような歌が出来る。まずはそこからだな。