無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

そういうゾーニング

一応芸能ニュースも大きいのは目にしてるので、SMAP解散騒動も知ってる。日記と銘打ってる以上、読み返した時に「そういえばこの頃はこんな事があったな」とわかるように、記すだけ記しておく。えぇっと、特にコメントはないかな…。

ウォッチングをしてれば面白いんだろうなぁ、とは思う。種々の思惑や事情を斟酌して、記事やリリースの出どころ、タイミングなどから実際の事情を紐解いていく。まぁ楽しいかな。それに伴って溢れるデマに釣られたり釣ったり。愉快犯多いぞぉ。

インターネットのお陰で様々な視点に触れられるようになった為、それまで寡占状態が続いていた大手メディアの"偏向"が露わになった、という歓迎の仕方は間違いではないが、昨日も触れたように、その結果別の方向により著しく偏ったオピニオンが増えただけで、事態が改善されているかといえばそうでもない。総体で見ればマイナスなのではないかとすら思えてくる。

特にスマートフォン時代になって、インプットアウトプット共に素人の割合がぐんと増えた。衆愚とはよく言ったもので、参加する人数が増えれば増える程質は下がる。必ずしもそれは論理的帰結ではないようだが、昨年の今頃話題にしたように、今の日本語圏では情報の淘汰圧が正常に機能していない為、放っておいたら大体デマの方が定着する。麻酔銃乱射癖メガネっ子小学生の言う通り「真実はいつもひとつ」だがデマや嘘は何通りでも思いつく。残った情報が真実である可能性は低い。

本来なら、専門家に任せるべきだ。その中で衆愚は「これはやってはいけない」とモラルやルールを監視するに留めるべきで、あれをやってみようとかこれをやってみようとか言い出したら大体ダメだ。大衆の参加は消極的なのがいちばんである。語弊があるかな。無関心と積極的のちょうど間くらいという意味で。

これも昨日触れたように、衆愚とは大衆についての概念だから相対的なものだ。テーマの設定によっては、あなたも私も衆愚になったりならなかったりする。その時々で入れ替わる。「弁える」。それが必要だ。


となると、"大衆"にウケる歌詞を書くにはその相対性を反映してより抽象的な物言いが必要になる。ある特定の政治的立場を表明するような歌詞を書くのは大衆へのウケが悪い。幸いにも日本語圏ではそのような慣習は下火だから構わなくてよさそうだが、アメリカ人のポップソングにはそういった傾向が局所的にではあるが存在する。くれぐれも巻き込まれないようにご注意下さい。

ただ、日本語圏においても、音楽活動以外で音楽家が政治的立場を表明する事がある。音楽家とて一人の社会人、己の政治的立場を公にするのは大いに結構、どころかそれこそが「表現の自由」なのだから命懸けで奨励すべき話なのだが、出来れば音楽とは切り離しておいて欲しい。こちらは娯楽のつもりで接しているので。少なくとも私は。どんなエンターテインメント作品でも、作者の政治的主張が紛れ込んでくると興醒めする。名義を変えて、或いは本名でブログかフェイスブックでも立ち上げてそちらでやって下さいな。18禁?ではないけれど、そういうゾーニングもあったらいいなと思う次第でありまする。