無意識日記々

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「世間」の言葉

大衆が相対的な概念、対象である事に前回触れた。構成員の含不含はテーマに対する専門性や興味の有無であることも。

一方で、タイミングや立場というものもある。

卑近な例でいえば、例えば新年の親戚同士の集まりであったり同窓会であったり。……と例を出した途端に嫌〜な顔をする方々も多かろう。そういう時には不躾な人が必ず居て、ひとりひとりに“世間的な評価”を無遠慮に付与していったりする。どうにも社会的成功に無縁な人間にとっては苦痛な時間だ。

自分はそれを「世間の言葉」と呼んでいる。実を言えば、それを言う方も怯えているのだ。勿論、自分は成功したんだという自負もあるのだが、それ以上の圧力が掛かっている。第一、本当に成功している人はそういう場での自慢は負の効果しか無い事をよくよく知っている。金持ち喧嘩せずではないが、宝くじか高額当選したら周囲に黙るべきなのと同じように、極端な成功者は大抵黙って聞き耳役だ。

それでも、「親戚の無粋なおっちゃん」や「クラスの噂話好きな子」というのは“世間の言葉”を発せずにはいられない。その人達にとってもよくよく聞けば不本意なのかもしれないが、多くの場合自覚は薄い。まるで誰かに操られているかのように。

「世間」のイメージは、故に、そういった“世間の言葉”によって構成されていく。最近自分も観る機会がないので的外れかもしれないが、ワイドショーというのはアナウンサーとコメンテイターがその“世間の言葉”を探り当てる番組だろう。出ている誰も本音で語りはしない。次の週から出られなくなるからね。それを積み重ねていっていつの間にか世間の言葉は定着していく。

このプロセスの中には、どこにも誰かの本音や生の感情が含まれていない。最初から最後まで探り合いなのだ。だが社会的弱者─経済的にも情報的にも─にとってはそうではない。その“世間の言葉”はあからさまな重圧となって降りかかる。故に無粋なおっちゃんや噂話好きなクラスメイトの一言は彼らの本来の言葉の強さより遥かに強いストレスを齎す。あれは彼らの言葉ではない。誰の本音でもない、世間の言葉なのだから。

さてPop Music、大衆音楽の歌詞とはその世間の言葉との押し引き駆け引きで出来ている。迎合するのも無視するのも反目するのも、結局は意識しているからなのだ。ヒカルさんは世間の言葉に対してどのようなアプローチをとってきたのだろうか。

そもそも、今までの実績でヒカルは「世間の言葉」を味方につけている。恐らくそこには「宇多田ヒカルは歌の上手いバカ売れした歌手で称えるのがベター」という誰のものでもない計算がはたらいている。そういう前提が無いと『調子に乗ってた時期もあると思います』なんて『道』で歌えない。『嫉妬されるべき人生』で『人の期待に応えるだけの生き方はもうやめる』と歌えるのも、それまでヒカルが周囲の期待に応える結果を出てきたからだ。

一方でこれらの歌詞を共感をもって受け止める我々の意識は少し違う。「人の期待に応えようとする人生」に疲れた人はこの歌詞を聞いて「だよねぇ」と溜息をつく。そう言ってみたいと憧れる。世間の言葉を味方につけたヒカルに守られる形で私たちは歌詞の中に自分たちの本音を見つけ出す。途轍もない強さの庇護の下で。

勿論、ヒカル自身は絶え間なく世間の言葉との駆け引きに晒され続けている。何度も繰り返すようにそれは誰の本音でもない。探り合いの中から生まれる亡霊のような存在だ。しかしそれは大衆一人一人の生殺与奪を権を持っている。大衆音楽の歌詞の多くが世間の言葉への迎合だが、宇多田ヒカルはそこから優しく守る言葉で歌を彩っている。感謝を越えた感動がそこにはある。稀有とか奇跡とかいう言葉では言い表せない大衆音楽を我々はリアルタイムで聴いているのである。