無意識日記々

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信頼と市場の森羅万象

「ポピュラー・ミュージックを書く為には市場への信頼が必要だ。」という話はしつこくしてきた。その反例が椎名林檎で、彼女は市場を怖がっている。若い頃は向こう見ずに反抗的になればよかったが、成熟し、担い手となった今はそうはいかない。その人がすかさずヒカルを恋しがる所が味噌なのだ。

つまり、林檎嬢からみてヒカルは「市場を味方につけられる人」「市場を信頼できる人」「市場から信頼されている人」なのだ。疑心暗鬼に陥らず、相思相愛。なのに、新宿系の私とも波長が合うという希有。手離さないよねぇこの絆。

勿論その空気は藤圭子も持っていた。新宿の女まで歌った女性(ひと)だ、あの少しアングラな危なっかしい空気をよくよく御存知なのだろう。歌舞伎町とかゴールデン街とかが似合うと言われていた。娘はそこで猫鳴きしていた。まだ10代の頃の話である。

血は強い。そして半身はNYで育った。小学校の6年間は多くの人にとって永遠とも呼べる長い時間だったかと思うが、ヒカルはそのうちの5年間をNYで過ごしたのだ。その代償として1年間で6年分の漢字を覚えなくてはならなかったが、やはり土地勘は持っている。

とすると、だ。私の仮説が正しければ、今のヒカルは日本に向けてPopsを書くより、全米に向けてPopsを書く方がいい曲が書けるかもしれない。ここが微妙なのである。

培ってきた信頼、というものがある。自ら耕した市場に対する信頼はある筈だ。今は市場にヒット曲はないけれど、それは私が居ないせいだと言い切る自信。それがあればいい曲が書ける。

NY、或いは全米(この2つはまるで違うんだろうなぁ…)に対しては、自らが耕した庭はほんの僅か。しかし、ヒット曲がたんまりある。たった今ヒットしている曲たちとの距離感で自分の作品を評価する事が出来る。これは案外心強い。この市場があって、こういう曲を書いたらここに嵌る筈だという期待こそがPopsである。

今の日本には、それが言えるのは「宇多田ヒカルファン」に対してだけだ。例えば、ヒカルはその気になれば私なんか容易に喜ばせる事が出来るだろう。それだけの技量は常にある。しかし、ポピュラーミュージックというのは「外へ」。誰だかわかんない人たちにウケてこそのヒット曲。発売から1年経っても買う人が何万人も居る(アデルやテイラー・スウィフトはまさにそうだ)という現実。その何万人の顔が見えるかというと無理だろう。それでも買ってもらえる買わせてみせる。そういう強さを、今の日本市場に対して持つのはいかなヒカルでも難しい。

しかし、林檎嬢にそこを期待されて折れるヒカルではなかろうて。そういった種々の悩みを乗り越えて、たまには回り込んで、時には穴を掘って、様々な方法で解決しながら聞こえてくるわあの麗しい歌声か、とな。いつになるやら。そろそろ誕生日だぞあと5日だぃ。