無意識日記々

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またまた石ころぼうしの話

いい曲は、存在に気づくかどうかだ。名曲であればあるほど、その素晴らしさ、美しさは自明であり、編曲には混迷を含まず、究極的には一意に音楽が決まる。まるでずっとそこにあったかのような必然性で。どうしてずっと気づかなかったのだろうという当惑にも似た悔恨とともに。

漫画「ドラえもん」に"石ころぼうし"という秘密道具が出てくる、と以前述べたように思う。復習しよう。この秘密道具は、身につける事で、自分の存在が誰の気にもとまらなくなる。透明になるとか見えなくなるとかではない。実際に見えている。視界に入ってはいるのだが、路傍の石ころのように、取り立てて気にしなくなるという事だ。勿論これでどこにでも入り放題なのだが…

そのエピソードがどんな風になるかについては「ドラえもん」の原作に当たってうただくとして。ヒカルは多分、ヒカルの最高の才能は多分、この、石ころぼうしを被った人に気がつける事だと思う。目が合う。話し掛ける。話を聞いてくれる。気が合う。笑い合う。

ヒカルの何が感動的かといえば、そこだろう。石ころぼうしを被ったのび太は誰の気にもとまらない。話し掛けても無視されるし、いや、無視すらされないし、ないのと、居ないのと同じになる。そういう感覚を人生で一度でも感じた事がある人にとって、ヒカルはただただひたすらに感動的な存在なのだ。

だから音楽家に生まれたのは、いや、音楽家に育ったのは必然かもしれない。いちばん得意なツイートは、道端に落ちていたものを拾うツイートである。エロDVDから人形の靴に至るまでヒカルは見つけて拾う。曲作りも同じだ。気づくかどうかだ。捻ればいいというものでもないし、かといって捻り出さなければいつまで経っても何も出てこない。

そんな時はステップ・バックして、石ころぼうしを被っている楽想は居ないかと目を見開く。耳をそばだてる。聞こえてくる事もあるし、聞こえてこない事もある。そして気づくのだ。メロディーがずっとそこに響いていた事を。今までただ気がつかなかっただけなのだ。


そう思えるか。強制はしない。出来る手筈もない。ただ捨象する毎日の中で世界の広さを感じる時。何万キロメートルとか何億光年とかいう話ではない。そこにあるのに気がついていないものが、世界には山ほどあるのだ。否、世界はほぼすべて、私の気づいていないもので出来ている。それが世界と言っていい。それと話せなければ、石ころぼうしを被ったそれと話せなければ、結局はただ死んでいくだけである。

ヒカルは、僕らの気づいていなかったメロディーをまたあっさり見つけてくるだろう。しかしヒカルとて人。一瞬だけ見れた全体像を手掛かりに、必死にペンを走らせる。これでよかったのか、これでいいのか、こうじゃなくちゃいけないんじゃないのか。どの悩みも私たちにはわからない。しかしその苦悩の果てに、美の必然性が待っている。それに較べれば137億光年なんてちっぽけなものだ。世界の豊かさは、大きさや小ささではなく、あるかないかなのだから。