無意識日記々

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売れない方が時代が動く

なんだか「女子サッカーなでしこジャパンより卓球の方が面白かった。視聴率も勝っていた」みたいな記事と感想がみられるが、今回たまたま勝てたから注目されただけで、負ければまた下がるだろう。1年後には全く逆の事を言われているかもしれない。いや、リオ五輪だって危ない。特に団体戦は4単1複の試合形式になるので勝ち上がりは全くわからない。今回に限っては、決勝まで勝ち上がれてよかったねという事だな。

この2ヶ月、「1998年の宇多田ヒカル」の著者宇野さんの記事が継続して出てきている。自著を熱心にプロモーションするのは結構な事だが、4月に入ったらまた新たな需要が出てきて重版が重なるかもしれない。こうやって熱気を持続させるのは必要だろう。

しかし、ならばどこかで「2016年の宇多田ヒカル」についても語って欲しい、という風に思わなくもない。1998年はもう落ち着いた過去の歴史だから語るのに動揺はないが、2016年は今であるから実体が動揺だ。何がどうであったかの歴史的評価はある程度化石化してからでないと難しいか。

彼の論旨はシンプルで、「同期4人が頑張った」という事に尽きるのだが、じゃあこの4人を集めてフェスティバルを開けるかというとそうでもない。同期という括りは、時代と年齢の話であって音楽性や体質の話ではない。彼女たちを通して語られているのは時代について、だ。彼女たちが時代を作ってきたのもまた事実なのでそれを通して語られている、というのはそうなんだが。

話がややこしいが、仮に。仮にヒカルが今年Flavor Of Lifeクラスの特大ヒットを出したとしよう。たぶん、「宇多田が売れた。流石だ。」で終わりだと思う。一度時代を作った者は、その巨大さ故、動揺より安定が求められる。ヒカルの安定は売れる事だ。ヒカルが売れなかったら動揺が走る。時代が動く。つまり、ヒカルの商業的な失敗と成功は、日本の商業音楽の歴史に対して反発的に作用する。そういう意味では、恐らく2016年の時点ではヒカルは時代に選ばれるアーティストではない。

一度派手に没落して、そこからまた這い上がるという物語を作るなら話は別なんだが、ヒカルは、2010年までなんだかんだでアルバム7作連続初登場1位をとるなど、「最初の頃に較べれば落ちるけどやっぱり売れる人」として認知されてきている。初期が異常だっただけで、「出せば売れる人」或いは「売れて欲しい人」として認知されている。その認識を前提にして「2016年の宇多田ヒカル」を語らないと、恐らくただの願望と失望のマッチポンプにしかならないだろうな。

あ、前回の続きはいつ書こうかな…。