無意識日記々

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総ての生命(いのち)に祝福を。

「育てる」「育む」って大事だなぁと痛感した三連休でした。いや私月曜日休みじゃなかったけどな。

この国では子育てが不利になって大分経つ。いや、育てる事自体が軽視されているというべきか。

ヒカルが今。新しい局面を見いだすとすれば、そこだろう。子育てを始めたのだから当然なんだが。

ヒカルは猫は飼っていたが、育てたという感覚はあっただろうか。一緒に住んでいた、せいぜい、世話をした、程度ではないか。

動物を飼うと、ちょっとは育てる感覚を味わえる。どちらかといえば、植物の方がそれは強いかな。

植物を育てる経験は得難い。夏休みの絵日記宿題の定番だが、どれだけの人が真面目に取り組んでいたか。

「さくら並木プロジェクト」にヒカルが首を突っ込んだときいて、そこが新鮮だった。桜を咲かせる。植物を育てる。命を育む。大切だ。

子を育て始めた事は、ヒカルにとって本当に、劇的に新しい事だったのではないか。「母親業に休みはない」と言ってて、正直な感想で凄く好感が持てたのだが(お前の場合彼女に対する好感度は常にMAXだろう、というツッコミはさておき)、つまり、例えば植物を育てた事があまりない、あってもサボテンとかそういうのだったかもしれない、と思ったのだった。部屋に花を飾る話は幾度かあったけれど、果たしてそれは種を植えるところからだったかというと、どうか。

もしかしたら、ヒカルの歌詞の“無常観”にはそういうのも原因としてあったのかもしれない。今までの桜ソングは2曲とも桜の花の儚さに美を求めたものだった。SAKURAドロップス桜流し。落ちたり流れたり。メッセでも濡れ落ちた桜の花びらに惹かれると語っていた。

その感覚が無くなったとは思わない。寧ろより強くなっているとすら思う。しかし一方で、桜の花を育てる、育む感覚も育まれ始めているのではないかという期待も持てる。

花束を君に』は、桜の花の歌ではないかもしれない。桜の花束はなさそうだし。しかし、花が咲く事、咲いた花の事が、歌われている可能性はありそうだ。

野暮を言えば、花束になった時点で花は死んでいるとも言える。摘まれているから。でも、この歌の要点はそこにない気がする。普段のヒカルなら、そういう視点もありだと思うが。

祝福の歌。門出の歌。そういう想像が浮かぶ。息子に向けたならば、人生という名の花束を渡した事に対する歌。或いは、皆の人生に向けた歌。どうだろう。

希望を歌う歌であれば、君に花束を渡したくて花を育てる物語も、粋だ。今のヒカルならそういう発想も違和感がない。


もう、こうやって好き勝手言ってられる時間も少ない。あと10日余り。生命を与える、生命を得る、その祝福。尊いというには余りにもあっさりと失われていくのが生命だが、得られたからには「全う」できたらな、と思う。総ての生命に祝福を。たとえそれが偽善だとしても、花束を君に