無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

#あさが来たと#とと姉ちゃんと

という訳でまともに視聴してもいない朝ドラ「あさが来た」を持ち上げてはみたが、結論は(勿論)「嗚呼、こっちにヒカルの歌が採用されなくてよかった」である。

音楽性が合う合わないというよりは、タイミングの問題である。もしヒカルが「あさが来た」に携わっていたら、『Can You Keep A Secret?』のようなビッグヒット曲を求められていた事だろう。そういうのも今後聴いてみたいとは思っているが、しかし、こうやって現実に『真夏の通り雨』と『花束を君に』を体験してしまうと、この2曲に出会えなかった人生を想像しようとしてゾッとするし、『桜流し』からの流れを順当に踏襲しながら一段々々また高みに登りゆくパイセンの姿をこうやって見れる今の、なんというのだろう、"時の強さ"みたいなものをあらためて噛み締めてしまうのだ。

「あさが来た」は、敢えて言えば“徹底的な売れ線”で固められていて、現実に結果を出す、数字を出すという特徴に於いて長けていた。その空気が現場でも徹底されていたとすれば、異物の最たるはるさんが撮影の苦悩を語るのも何かわかる気がする。人を楽しませるツボを押しまくる事に妥協を許さない作品。ロックでいえばJOURNEY,BOSTON,ASIA,DEF LEPERD,NICKEL BACKといった"産業ロック"のような作品だ。

今のヒカルはそちらではない。パーソナルに、母の死と向き合いながら前に進んでいる段階だ。或いはもう今は次のステップに進んでいるかもしれないが(私の直感は"まだだ"と言ってくれているがな)、少なくとも『真夏の通り雨』から『花束を君に』の流れの中では、まだまだ"問題と向き合っている"感じである。

その、売れるとか売れないとかいう"強靱な心"とは今、少し離れたところにヒカルは居る。それでも発売から3週間経った今もiTunes Store等の配信チャートで1位に返り咲くなど、「売れている」としか言えない状態ではある。でもヒカルが「カッチリしたPop Song」を作ってきた時はこんなものでは済まない。例えば『traveling』や『COLORS』のような曲。こういうのなら『あさが来た』みたいな整剛的(←今造った造語)世界観に合うだろう。

しかし、現段階では『真夏の通り雨』と『花束を君に』の、“商品としての完成度”は、低い。この3週間、この2曲について、“完成度が高い”という形容を使わないように注意してきた。一言でいえば、遠くの方で耳にする人たちに対してはあまり"親切"とはいえない。もっとシェイプして、人を小馬鹿にするくらいにシンプル&クリーンに仕上げないと、“売れ線”まで持ってこれない。

とと姉ちゃん」は、その点、がしゃがしゃごちゃごちゃしていて親近感がわく。全体的に、言いたい事はわからなくもないんだけど、行き届き切っていないよね、という感が強い。そこらへんが、今のヒカルの状態とよくシンクロしている。まぁヒカルの場合、そんな過渡期の状態でも、いや、だからこそかもしれないが、その歌でリスナーの心を乱暴に鷲掴んで離してくれないのだけど。

翻って、「とと姉ちゃん」は、少しずつよくなってきている。制服盗難騒動の時に長谷川に「本人驚いちゃってるよ」と言わせた場面などは、今まで欠けていた丁寧さが生まれてきた事を窺わせ印象深かった。これからも、いきあたりばったりでもないだろうが、九転び十起きで(笑)少しずつよくなっていくんじゃないか。兎に角、精一杯で、あざとい売れ線とかとはかなり遠い所に在る。このまま行ってくれれば、今まで以上に、『花束を君に』が耳に心に馴染んでいく事だろう。そして、このドラマが終わる頃には、ヒカルの新しい売れ線の曲が聴けてんじゃないかな。