無意識日記々

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音が鳴るか鳴らないかだけの話で

真夏の通り雨』と『花束を君に』の2曲に対して持つ私の感想は2つの論点の葛藤で成り立っている。

ひとつは、余りにも情報量が多い点。いずれの曲も作詞作曲兼業歌手ならではの匠の技だらけで、もうどこから解説すればいいかわからないし、一生かかっても全貌の把握は無理かもしれない、と半ば諦めかけている程。この日記もこの2曲に関しては「ギブアップ宣言」から入っている程だ。

したがって、この2曲に引き続く新曲に触れるのが怖くて堪らない。もっと言えば、まだ全然この2曲を消化しきれてないのに次の曲なんて出して欲しくない。もっと時間をかけてゆっくり作ってくれよヒカル…。

なのに、他方。この2曲は「過渡期である」事を強く感じさせる。総じて実験的というか、まだまだ創作を通して自らの心のセラピーを行っている途中というか。構成も非常に複雑で、難解ですらある。こういう曲を聞かされてしまったら、「この数々の試みによって着地する地点はどこになるのだろう?????」という興味が激しく沸いて湧いてかなわない。どうなるオシシ仮面の比ではない。早よ新曲を、早よ新曲を。


という訳で、相反する2つの感情が同時に押し寄せてきていて度し難いというか遣る瀬無いというか如何ともし難いというか。どうすりゃいいかわからんのである。

解決策は、そう、ヒカルが次の曲を発表するまでにこの2曲を消化し切ってしまう事だ。無理無理言ってないで、それしかないのだから地道に毎日前に進む事にしよう。

そう腹を括れば迷いはないのだが、坂道の角度は変わらないまま。気分はロック・クライミング。言い方が古いか。今はなんつーんだっけ。


前に『真夏の通り雨』ではバスドラの『ダダダン』と打ち付ける音が、最終局面への伏線として機能しているという指摘をしたが、それだけでは説明が足りていなかった。このバスドラを連続で打ち付けるパート(『降り止まぬ真夏の通り雨』の後に鳴り始める場面)に行く前に、更にその伏線が存在する、つまり伏線の伏線がある事について触れていなかった。

それは、『今日私は一人じゃないし〜』から始まるパートだ。『真夏の通り雨』の後では『ダダダン・ダダダン』と連続で打ちつけてくるが、こちらでは『ダダダン・・・・・ダダダン・・・・・』と間を置いて間欠的に打ち鳴らされる。更に、そこから行くかと思ったら途切れるようにしてまた引っ込むのだ。とても変わったアレンジである。こんな音作りは恐らくヒカルの曲では初めてだろう。

ほぼ同じメロディーで前段の『汗ばんだ〜』のパートでは、バスドラは全く聞こえない。ピアノの残響があるのみである。そことの対比で『今日私は〜』の場面に間欠的に打ち付けられるバスドラが鳴り響くも、最後は『ダダダン・・・・・ダダダン・・・・・ダ…』と途切れてしまう。そして、3度目の正直とばかりにタイトルコールの後に反復的なリズムとして生まれ変わって登場し、あの印象的なエンディングを導く、とバスドラの構成だけでも相当ドラマティックなのだこの曲は。

…おわかりうただけるだろうか。『ダダダン』ひとつ説明するだけでこれだけかかる。音程も歌詞も出てこない。ただ音が鳴るか鳴らないか、それだけの情報を操るだけで既にこの曲にはドラマが生まれているのだ。ここにメロディーと音韻と編曲の絡み合いの話が…嗚呼、目眩がしてくる。なんちゅう曲作ってくれるんやほんまヒカルは。…また来週(苦笑)。